Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 2018年8月10日の翻訳をもって翻訳ワークは終了しました。                     コメント欄は利用OKですが、リトリートに入っている時は回答しません。。

『阿羅漢向・阿羅漢果』3-1

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

 阿羅漢の証し:阿羅漢はなぜ泣くのか?

      アチャン・マハー・ブーワ尊者2002年6月17日の開示

<私は>非常に正直にあなた方に言う:

私はすでに、二度と再び、過去も、現在も、未来も、経験しない。

というのも、私の心は、すでに、いかなる世間的相対的実相も、残留していないが故に。

私はあなた方に、もはや(+心内に)、どのようなものも残してはいない事を、保証することができる。

これは仏世尊の法における、煩悩を滅する力である。

法は、心の中にあり、煩悩もまた、心の中にあって、法と敵対する。

我々は、まさにその真ん中に挟まれて、この衝突から生じる所の、善と悪の果報を、受け取っている。

これは、我々が心に属しているが如くであり、また、心もまた、我々に属しているようなものである。

法は我々を護持し、救済してくれる:

我々の敵、すなわち煩悩は、我々を圧迫し、鞭で打って、我々をそれに屈服させる。

二者は同じ場所ーー心ーーから生起する。

禅の修行を通して、法は、徐々に、充分な力を獲得して、内在する煩悩ーー最も粗いものから、最も微細なものまでーーを攻撃して、打ち負かすーーそして、その後に徹底的にそれを心の中から追い出す。

これが、我々が言う所の、煩悩によって生じる純大苦聚が滅せられた、のである。

苦の滅は、無上の快楽(=楽しみ、喜び)の出現であり、すなわち、至高で無上なる法の生起であり、それは法の光明が、煩悩によって覆い隠されて、光を発することの出来ない場所において、発生する。

最近行った開示では、私は涙を流しながら、この重大な体験を思い出していた。

証悟が発生した時、私の心は、はっきりとそれを知ることができたが、最近の因と縁の変化によって、私はそれを公開して、検討する事にした。

法が己自身を顕現する時、その衝撃は、非常に強く、力があり、四方八方へと湧現し、それに触れる一切に、深々と影響を与えるが、それは心理的影響だけではなく、生理的影響までも及ぼす。

たとえば、涙が零れる。

法に接触した時、涙は強烈に流れ出てくる。

問題は、宇宙全体に存在する衆生は、煩悩によって、束縛されている事である。

答えて頂きたい:

この世界において、誰が、法の実相を見たことがあるか?誰一人としていない。

故に、アチャン・マハー・ブーワが公衆の面前で涙を流しているのを見たならば、彼らは吃驚してしまう:

彼に何が起こったのか?

もし、彼が徹底的に煩悩を消滅させて、阿羅漢を証得したのであれば、なぜに、これほどひどく泣く事があるだろうか?

おお!

見ましたか?

これらの人々は、阿羅漢の涙を誤解している。

あなた方は、理解できますか?

あなた方の内、人の身体の一つひとつの部分は、すべて世間的真実である事を、理解している人はいますか?

それらは皆心と関連していているが、心もまた、それらに責任を負うものである。

ひとたび、心ーーそれらの管理人ーーが崩壊したならば、その敵、この世間的真実もまた、粉々に砕け散ってしまう。

その後、心は、心の純潔で清浄なる本性が、己自身のの本質に従って、大いなる光明を発するのである。

これがあの時の体験の一部分である。

(3-2につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>