<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
その結果、阿羅漢の、純粋で清浄なる心は、我々が知っている所の、通常の、汚れていて、不浄なる人体と比較する事は、できなくなる。
一人の人間が、己自ら、この真相を見たならば、たとえ、彼の目の前に仏がいたとしても、彼は、二度と仏に、証しを求める必要はなくなる。
この様な状況の下、彼は、ただ、仏に向って合掌して、善哉と叫ぶより、ない。
勝義諦が、個人の心内における自証であるため、彼は、外に向かって、証しを求めることはない。
これがいわゆる ”無上で甚深なる法は、一切を超越している” である。
これは、心中で生起する所の覚醒と、阿羅漢の清浄なる本質とは、同じものである事、世間的な無常・苦・無我の法則を、徹底的に超越した所の清浄であり、世間的な法は、これ以上は、それには適合されない、という事を示すものである。
蘊はその時、激しく震える。
たとえば、涙を流す等。
涙が流れる原因は、非常に多い:
悲しみは涙を連れて来るし、楽しみも、然り。
煙も涙を誘うし、タマネギも涙を誘う。
涙のために、なぜ、これほど大いに驚き、不思議がるのか?
畢竟、涙とは水であるーーそれは、水大であり、色法の中の地、火、風と同じであり、水は、世間的真実にしか、過ぎない。
突然、唐突にやってきた法の、清浄なる本性によって、強烈な振動が、起こった。
これらの色法は、みな刺激を受けて揺れ動いたが、清浄なる本性自身は、全くもって、影響を受けない。
蘊の本質は、不断に反応することであり、それらはよいもの、悪いもの、楽しいもの、痛苦のもの、悲しみと喜びによって、激動する。
それらは永遠に、この様に、また、あの様のと、激動させられる。
そしてその一刻において、それは、法の清浄なる本性によって、突然に出現し、励起する。
(3-4につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。
<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>