<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
あなた方の中に、至高で無上なる法を見ようとして、チャレンジした事のある人はいるのか?
それとも、あなた方全員は、盲目的に座り、目をきつく閉じて、大きな口を開けて、法に対して、野獣のような叫び声を上げるのか?
なぜ、あなた方は、己自身の首の頂点部分(=頭)にある穢れに向かって、吠えないのか?
よく考えてみて!
その一塊の穢れは火である。
貪と、瞋と、痴(=無知)が、その赤々と燃える大きな火のような穢れを作っていて、あなた方、一人ひとりの心が、汚染されている。
なぜ、あなた方は、己を顧みない?
法の殊勝なる本性を批判・評価したとて、何等の意味がある?
仏世尊は、我々以前に、この殊勝な境地に到達したが、もし、アチャン・マハー・ブーワの、仏陀の教法への理解が不正確であるならば、すべての声聞阿羅漢たちもまた、不正確という事になる。
しかし、実際は、あれら尊い阿羅漢たちは、永遠に尊敬するに値する。
あなた方は、なぜいまだに、己自身の心に、塵や穢れが充満している事に、気が付かないのか?
この種の、有害な自我(+意識)は、あなた方に堕落を齎す。
もし、あなた方が、これら汚染をうけた自我の弊害を見ることができないならば、あなた方は、法と衝突する事に、なるでろう。
法と衝突するという事は、石に向かて、刃物を振う事に似ているが、刃物で石に向かって行って、どうなると思うか?
あなたが、車を山に向かって、衝突させたならば、何が起こる?
怪我をするのは、誰であるか?
考えてみてごらん!
一桶の糞便が打撃を受ける。
殊勝なる者は、すでに世間を超越した故に、傷害を受けることはない。
仏教徒として、あなた方は、行為における一般的な準則を覚えておかねばならないーーあなた方の穢れをもって、他人を汚してはならない。
なぜなら、その過程において、あなた方は、己自身を壊滅させることになるが故に。
この様にすることは、何等の利益も齎さない。
私の言う殊勝とは、どこから来るのか?
私はすでに、この点に関して、タイの国民の一人ひとりに示して見せた。
もし、あなた方が、理性を尊ぶ事を拒否するならば、あなた方は他に、何を受け取る事ができるだろうか?
今日の人々は、一体何を追求しているのであろうか?
私が探し求め、追い求め、かつその為に命まで捨てようとして(+得たものは)、今、慈悲の心でもって、弟子たちを教え導いている、無上の甚深なる法である。
私は我田引水、嘘をついて、喧伝をしているのではない。
嘘、悪毒の流言飛語、これらはすべて必要のないものであって、それらは、法の円満なる本性の上に、更に付け加えるべきものではない。
もし、円満なる本性に、なにも付け加える必要がないのであれば、なぜ ”円満” と呼ばれるのか?
よく考えてみる事。
(3-6につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>