Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

『阿羅漢向・阿羅漢果』4-2

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

現象の生・滅を、認知することの出来るのは、識(viññaṇa)である。

たとえば、識は、(+以下のものを)認知すると同時に、色、声(音)、香、味、触が、目、耳、鼻、舌、身体に接触した時に生じる影像・イメージを記録する。

一つひとつの外塵と、それに相応する所の内根とが接触すると同時に、それと相応する所の識が生じ、また記録され、かつ、接触が終了する時には、それは、同時に滅するのである。

識は、それゆえに、心の一つの状態であると言える。

行または思想(=考える事)と想像は、心の、もう一つ別の状態である。

ひとたび、心が、これらの状態に対して反応すると、それらは、止まることなく増長する。

また、もし、なんらの状態も生起しないならば、心本来の機能ーー知るーーが突出してくる。

とはいえ、一般の凡夫の、能知(=知る、知る者)の心と、阿羅漢の、知る、という心は、完全に異なっている。

凡夫の能知の特性は、内部において汚染されている。

漏尽者としての阿羅漢は、すでに、一切の汚染から解脱しており、彼らの、知る、は純粋で、清浄で、簡単な覚知であり、汚染されていない。

純粋で清浄な覚知は、何物にも汚染しておらず、無上の覚知は、円満と楽しさを、齎すものである。

真正なる殊勝な<知る>は、阿羅漢の徹底した清浄なる境地と相応する。

この無上なる楽しみは、恒常であって不変であり、世間が常に無常・苦・無我によって結縛される所の、有為法のようには、変化しない。

この種の世間法は、根本的に、すでに徹底的に清浄なる人の心に進入することはできない。

(4-3につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>