Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

『阿羅漢向・阿羅漢果』4-3

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

心は、輪廻を構成する、真正なる根本である。

それは、有情が不断に輪廻する所の、本質である。

心は、輪廻の扇動者であり、また、生死を相続せしめ、(+我々をして)流転せしめる、主要な駆動者でもある。

輪廻して、不断に流転するというのは、有情が不可避的に業力の支配を受けて、不断に生死して止まない為である。

心は、業力に支配されるが故に、業力に使役されて、恒常に流転して、生死する。

心が継続して業力の統治をうけている限り、状況は各の如くであって、変わる訳がない。

唯一の例外は、阿羅漢の心であって、彼の心は、完全に業力の主宰を超越しており、同時に、彼は、徹底的に、一切の世間的相対を、超越している。

いかなる世間法も、阿羅漢の心を、干渉する事は出来ない。

阿羅漢の境地において、心は、一切から出離している。

ひとたび、心が徹底的に清浄である時、それは、唯一、己自身に内在する所の、本性によってのみ覚知するようになる。

ここにおいて、心は、それ自身における最高の境地を証得する事が出来るのであるが、それは、この絶対純粋、清浄なる境地において、円満に証得するものである。

この境地において、一期の生命が、もう一つ別の一期の生命へと、引き継がれていく所の輪廻は、止息する。

この境地においては、あの止まることを知らないかの如くに、高レベルの生命から、低レベルへの生命へと堕落して、また再び上昇し、不断に生、老、病、死を遍歴する所の輪廻は、止息する。

なぜ、この境地において、輪廻が止息するのか?

それは、通常、人の心に浸透していて、それを不断に輪廻せしめる所の、覆い隠された雑染による因・縁をば、すでに徹底的に滅し去った為に、後に残ったのは、純粋で清浄なる、二度と再び、生死を遍歴しない心であるが故である。

もし、心が、いまだこのレベルに到達しないのであれば、輪廻は避ける事ができない。

ある種の人々は、死後の輪廻を否定し、またある種の人々は、頑迷にも虚無主義を主張して、死後、生命が継続する可能性を否定する。

しかし、信仰は、事実を変えることはできない。

一人の人間の意識における、知る、という根本的特性は、推測に主宰される事はなく、また、個人の観点や意見によって、影響を受けることもない。

それは一つの、己自身に内在する最も主要な主宰者であり、無上の権威である所の業力と連合して、一切の推測を退ける。

結果、一切の有情は、一期の生命から、もう一つ別の一期の生命に向かうべく圧迫され、粗いもの、たとえば、陸上の、海の、水の中の生命を遍歴する;

微細なものでは、餓鬼、天、梵の生命がある。

後者は非常に微細であって、人の肉眼で見ることが出来ないものであるが、心は、まったくの困難もなく、これらの道に生まれることができる。

その時、必要なものは、唯一、相応する業だけ、なのである。

業力は、決定的要素であり、それは心をして、輪廻の内に、止まる事を知らぬように流転せしめるのである。

(4-4につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>