<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
もう一つ別のレベルでは、心は、身体から完全に分離することができるが、しかし、いまだ受、想、行と識の、これら個人的な心理作用の内から、分離する事はできない。
心の、このレベルにおいては、我々は、智慧でもって、それを身体から分離する事はできるし、かつ、最後には永遠に、身体は ”私” ”私のもの” であるなどと、信じる事はなくなる。
しかし、それでもなお、この段階では、心を、受想行識の作用から、分離する事は出来得ない。
継続的に智慧でもって、分別、区別するならば、心は最終的に、これらの心の作用から分離することが出来、その時において、明確に証することができるーー現証ーー五蘊と心は、異なっているという事実を。
これが、第三番目のレベルである。
最後のレベルになると、我々は、虚妄なる一切の根本的原因に専注する、すなわち、あの極端に微細で、(+心に)浸透する所の、無明である。
我々は、無明というこの詞を知っているだけであって、それが心の中に覆い隠されている事を、察知することができない。
実際、それが心内に浸透している様は、無色無味の毒薬のようで、我々には見ることができないが、しかし、それは確実にそこにある。
この段階において、我々は、高くて深い念力(=サティの力)、智慧、精進によって、この毒を取り出さなければならない。
最後には、全面的に発揮された所の、念力と智慧でもって、無明でさえも、心から分離することができる。
心に浸透した一切、すべてのものが取り去られた後、我々は、最終的な境地を証得することができる。
このレベルにおける分離は、永恒のものであって、それは徹底的な離脱であり、二度と再び努力する必要はなくなる。
これが心の真正なる自由である。
身体が病を得る時、我々はこれは、物質的元素が影響を受けたのだという事を知っているが故に、病状によって干渉されたり、気落ちしたりしない。
通常の状況においては、身体の不適は、心理的な不安を齎すが、ひとたび、心が真正に自由である時、身体が極めて痛苦であったとしても、心は依然として、無上の喜悦を保持することができる。
身体と疼痛と心は、異なる現象であり、故に、心は、痛苦に悩まされることがない。
まったくの猶予もなく、捨棄された後において、身体と感受は、二度と再び混同される事はない。
これが、心の絶対解脱である。
(4-6につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>