<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
<心の内在は光明であり清浄である>
それはあらゆるもの、物事との接触を、保ち続けている。
一切の有為法は、例外なく無常・苦・無我の法則の制限、影響を受けているが、唯一、心の本性は、この制限を受けない。
心が、無常・苦・無我の制限、影響を受けるのは、この法則が制限する所の法によって、心が汚染される為であり、その事によって、心もまた、それと共に、流転することになった。
心は、有為法と一体化するが、しかし、それは分解したり、崩壊したりはしない。
それは、あれらの、それに影響を与える所の力に影響されて流転するが、その事によって、また流転する。
しかし、心の本性の真正なる力、それはすなわち、知る、であるが、それは死ぬということがない。
この不死の本性は、分解や破壊を、超えている。
分解や破壊を超越しているが故に、それは無常・苦・無我という、この自然現象からも、超越している。
しかし、我々はこの事に関して、蒙昧として無知である。
というのも、心を汚染する所の有為法は、完全に心に絡み付いて、心の本性は、それらに主導されているからである。
生と死は、心が煩悩に汚染され続けている状態であると言える。
しかし、煩悩自体が、我々の無知の原因であり、その為に、我々はこの事実を察知することができないでいる。
生と死は、煩悩が齎す問題である。
しかしながら、我々の本当の問題、唯一の根本的問題ーー心の最も根本的問題でもあるがーーは、我々に、真正な己自身になるための力に欠けている事にある。
我々は却って、嘘のものを、我々の真正なる自己と思いこんでいるのであるが、このことによって、心は、己自身の本性と真正に一致する事が無い。
更にひどいのは、心は、煩悩の詐欺に振り回されて、一切の事柄に、憂慮と恐怖を持ち込んだことである。
それは生存を恐れ、死を恐れ、どんな事柄であってもーー少しの痛み、劇的な痛みーーを恐怖した。
最も微小で、取るに足りない干渉であっても、不安を齎すのである。
その結果、心は、長期的に憂慮と恐怖に満たされるようになった。
恐怖と憂慮は、心の一部分ではないのではあるが、しかし、それは、心に干渉する能力を持っているのである。
(4-7につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>