Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

『阿羅漢向・阿羅漢果』4-7

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

心がすでに浄化されて、一切の干渉から徹底的に清浄かつ自由になった時にだけ、我々は、一粒の、一切の恐怖から自由になった心を見ることができる。

その後において、恐怖もなく、勇気もなく、残るのは唯一、心の真正なる本性であり、それは自然に独存し、時間と空間から永遠に独立する。

それだけが存在している。その他のものは存在しない。

これこそが真正なる心である。

”真正なる心” は、阿羅漢の絶対的清浄、有余涅槃のみを指すが、その他のもので、”真正なる心” と呼べるものは無い。

この詞を他のものに被せたならば、私は慙愧を覚えるものである。

”本来の心” とは、無尽に生死流転する所の心の本性を指す。

仏陀が ”比丘たちよ!本来の心の内在は、光明であり、徹底的清らかである。しかし、それがそれにクロスする煩悩と混同される事によって、汚染を受けるのである。” と述べる時、すなわち、この事を言うのである。

この観点から言えば、”本来の心” は、世俗諦の本来を言い、絶対清浄なる本来ではない。

本来の心に関して、仏陀は言う ”比丘たちよ!本来の心は、明るい(Pabhassaramidaṁ cittaṁ bhikkhave)。”

Pabhassara とは、明るく光るという事であり、清浄を意味しない。

彼の理由は絶対的に正しく、反駁の余地はない。

もし、仏陀が本来の心を、清浄なる心であると規定するならば、人々は即刻反論することができる:

”もし、心が本来清浄であるならば、それはなぜ、再生することがあるのか?”と。

阿羅漢の心は、すでに清浄である。

それならば、彼は、心を更に清浄にする必要はないではないか?

これは明確な異議であるーーそれを清浄にしなければならない理由とは、何か?

反対に、光明の心は、清浄にされる事ができる。

というのも、その光明は、無明の核心的本質であるが故に。

心が、この光明を超越して、絶対的解脱に到達した時、禅者は、己自ら真相を理解することができる。

その後にあっては、あの光明は二度と心に顕現することはない。

このようであって初めて、彼は真正に最終的な実相に覚醒したのだと言える。

(4-8につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>