Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 2018年8月10日の翻訳をもって翻訳ワークは終了しました。                     コメント欄は利用OKですが、リトリートに入っている時は回答しません。。

『阿羅漢向・阿羅漢果』4-8

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

<ひとたび心が充分に浄化されたならば・・・>それは光明で清らかであり続ける。

その後に、我々は静かな場所で、安寧と静けさに囲まれる時ーー静かな深夜のような時ーーその時、心がたとえサマーディの境地に入っていなくとも、それが覚知する所の焦点は、かくも殊勝で、微妙で表現しがたいほどである。

この微細な覚知は、光明となって顕現し、我々の周囲において、あらゆる方面に照射する。この時、心は、サマーディには入っていないものの、しかし、我々は色、声(音)、香、味と触を意識することがない。

実際、それは、まさに己自身の堅固な基礎を体験しているのである。

心の根本は、すでに充分に浄化されたので、残されたのは、人を惑わす、壮麗な能知が最も突出した特徴そのものであった。

この種の絶対的微妙なる覚知は、独立して身体外部に存在しているように、完全に心から突出して顕現する。

この段階においては、心の微細さと、顕示された所の本質から、能知の特性は完全に主導の地位を確保した。

この時、いかなる映像・イメージも出現する事はない。唯一覚知のみが、独自に突出して顕現してくるのである。これが心の一側面である。

この充分に浄化された心が禅定に入る時、また別の一側面ーーどのような思惟も、想像もないーーを見ることができる。

一切の活動、一切の行為は停止しており、それは暫くの間、安止する。

心の内において、一切の思惟と一切の想像は全面的に停止するが、これを称して ”心は完全なる定の境地に入った” と言う。

ここにおいては、唯一、心の 知る という根本的特性のみが、いまだ保たれていて、この微細な覚知以外ーーほぼ、法界全体を包み込んでーー絶対的に他のものは含まない。

レーザーは、照射の範囲に制限があって、それの強度に従って近くまたは遠くを照らせるだけであるのに反して、心流は制限がなく、”近く” とか ”遠く” とかもない。

たとえば、電燈の光の強弱は、そのワット数によるのであるが、ワット数が強ければ強いほど、遠くを照らす事ができ、ワット数が低い時は、近くしか照らせない。

しかし、心の流れは、これとは非常に異なっていて、距離は要因にはならない。

精確に言えば、心は時間と空間の制限を超越していて、すべてに及ぶことができる。遠くても近くても、空間の概念がここでは用をたさないのである。

唯一顕現する所の微細な覚知は、宇宙全体の一切に満ち満ちており、世界全体は、この覚知の微細な特質で充満しており、その他のものは、ほぼ存在していないかのようである。

世界の一切は、すべて今まで通りに存在しているのではあるが、この已に障碍と障害物を滅し去った心の流れは、一切を包み込むようにすべてに及ぶのである。

これが心の真正なる力である。

絶対的に清浄なる心は、更に描写がしにくい。

それは、説明できる範囲を超えている為に、私はどのようにそれを表現していいのか、分からないでいる。

それはすでに世間的相ではないために、一般的な世間の事物のようには、説明することができない。それは唯一、一切の世俗諦を超越し、己自ら勝義諦を証悟した者の領域であり、故に言語・文字では、それを描写することができないのである。

(4-9つづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>