Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

『阿羅漢向・阿羅漢果』4-9

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

<なぜ我々は”世俗”の心と”絶対解脱”の心に分けるのか?>

それらの心は、(+二つの)異なる心であろうか?

そうではない。

それらは同じ一つの心である。

世俗的な真実から言えば、たとえば、煩悩と漏が、それをコントロール(制御)する時、これが心の一つの状態である。

智慧の機能が、この状況を浄化して、それを徹底的に崩壊して分解したならば、あの、試練に負けない、真正なる心、真正なる法は、それと共に崩壊して消失するということはない。

ただ、あの心に浸透した所の無常・苦・無我の状態だけが消失するのである。

煩悩がどれほど微細であろうとも、それは依然として、無常・苦・無我によって支配されている。故に、必然的にそれは世間的な相となる。

ひとたび、それが徹底的に崩壊したならば、あの真正なる心、世俗諦を超越する所の心は、全面的に展開し、顕現する。

これを心の絶対的解脱といい、または、心の絶対的清浄と言う。

一切の、直前にあった、心との連携は、すでに永遠に切断されて、いまはただ、絶対的な清浄があるのみである。

心の 知る という根本的特性は、己自身の単独で存在している。

(4-10につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>