<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
<なぜ我々は”世俗”の心と”絶対解脱”の心に分けるのか?>
それらの心は、(+二つの)異なる心であろうか?
そうではない。
それらは同じ一つの心である。
世俗的な真実から言えば、たとえば、煩悩と漏が、それをコントロール(制御)する時、これが心の一つの状態である。
智慧の機能が、この状況を浄化して、それを徹底的に崩壊して分解したならば、あの、試練に負けない、真正なる心、真正なる法は、それと共に崩壊して消失するということはない。
ただ、あの心に浸透した所の無常・苦・無我の状態だけが消失するのである。
煩悩がどれほど微細であろうとも、それは依然として、無常・苦・無我によって支配されている。故に、必然的にそれは世間的な相となる。
ひとたび、それが徹底的に崩壊したならば、あの真正なる心、世俗諦を超越する所の心は、全面的に展開し、顕現する。
これを心の絶対的解脱といい、または、心の絶対的清浄と言う。
一切の、直前にあった、心との連携は、すでに永遠に切断されて、いまはただ、絶対的な清浄があるのみである。
心の 知る という根本的特性は、己自身の単独で存在している。
(4-10につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>