Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

『阿羅漢向・阿羅漢果』4-10(翻訳終了)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

我々は、この 知る という根本的特性が、身体のどこかの部位に集中しているのだ、とは言えない。

それ以前の、世俗の心は、一つの明確な点を形成していて、我々はそれを見る事が出来たし、知ることもできた。

たとえば、サマーディにおいては、我々はそれが胸にある事を知る事ができる。というのも、能知の特性が、非常に明確にそこに存在している事を、覚知する事が出来るからである。

平静で、明るく、光り輝いており、その一点において、目を引くように顕示される為、我々は己自身で見ることができる。

故に、禅定によって、基本的なサマーディに入る事のできる禅修行者は、みな、”能知”の中心は、胸にある事を、明確に知っている。

彼らは、それが脳内にあるなどとは言わない。

そういう間違いは、あれら、サマーディの体験のない人間が言うのである。

しかし、この同じ心が、徹底的に浄化されたならば、あの中心は消えてしまう。

我々はこの時、心は上にあるとか、下にあるとか、または身体のどこそこの部位に安住しているとかは、言わない。

今、それは純粋で浄化された覚知であり、一つのそれほど微細で精緻な覚知は、世俗が言う所の ”知る”という、一切の特性を超越している。

我々が ”特別に精緻” と言うのは、世間的な言語でもって、その真実を表現できないが為であるが、絶対的精緻と言う言い方もまた、相対的なものに過ぎないのである。

この微細な覚知は、一つの点、または一つの中心を持たないために、どこかの部位に安住することはない。

それはただ、知る という根本的特性であり、絶対的に何かが浸透している事はない。

これらの蘊は、(+証悟する)以前の心と混じり合っていた時と同じように、それは依然として蘊の中に存在しているが、しかし、今の心は、それらと同じいかなる性質も擁しておらず、それは二つの異なる世界なのである。

このような状態に至った時にのみ、我々は身体と、蘊と心は、完全に異なったものであり、分解されたものである、という実相を、明確に知る事が出来るのである。(翻訳終了)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>。