Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

《Vipassanāハンドブック》2-2(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

「驕慢妄想」とは、個体(=個人)の(+度を越えた)高度な想像、たとえば、常に「私は・・・」「私の・・・」と(+言いたがり)、それが個人の特質として、または外部に存在する物事として、支持され、または褒められる時、気炎が非常に盛んになって、傲慢になり、狂妄的な自大になる事を言う。

ここにおいて、個人の特質とは、目、耳、手、足、美徳、直観、知識、権力などを言う;

外部に存在する事物としては、家庭、親戚、環境、住居、財産などを言う。

「見妄想」とは、個体(=個人)が「自我の枠組み、私の原則、私の要点、私のもの、私の典型(模範)」の内に、限界を設ける事をいう。

たとえば、「土壺」と「土鉢」、名前(+に拘り)、意味(+に拘り)、それが土で出来ているとか、どのような形状であるとか、なぜに土壺と言われ、なぜに土鉢と呼ばれるのか(+と拘る)。

または「鉄壺」と「鉄鉢」、名前(+に拘り)、意味(+に拘り)、それらは鉄製である事を知って、どの様な形状であるか、なぜに鉄壺と言われ、なぜに鉄鉢と言われるのか(+と拘る)。

同様の理屈で、四大(地水火風)の「地」は、種々の生命と「私」を構成するものである;「私」というこの種の妄想分別、最終的に生じることになる。

生命は種々の元素で構成されており、「私」もまた然りである。

ここで言う所の元素とは、生命を構成している所の要素を指す。

「水」とその他の元素(地火風)は、肉体的生命を構成する。

上に述べた過度の自我への評価または見妄想は、後ほど更に詳しく説明する。

この三種類の妄想は、また三種類の執見(gāhas)、または三種類の執取とも言われる。

それは、彼らの執取する力が如何に堅固で、頑迷であるかという事を著わしている。

この三種類の妄想が、錯誤の行為を引き起して、この種の錯誤の行為が往々にして、徐々に、不断に増長し、かつ、すべての限界、範囲を超え、かつ止まることがない。

故に彼らはまた、三種類の迷執(papañcas)と呼べれる。

(3-1につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<《Vipassanāハンドブック》(原題 Vipassanā Dipanī)

Ledī sayādaw著 中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>