Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

般若の独り言~パオのソータパナ(1)

昨日、読者の方から以下のようなコメントを頂きました(お訊ねの内容について、記憶に頼っています。元の文章表現と、多少異なる事があります。あしからず)。

 

<パオ・メソッドで修行している人たちの内、一人でも、ソータパ(ン)ナ(注1)を証悟する事ができている人はいるのか?

パオでは、(メソッドの)コース(注2)を何度も繰り返し修行している人が、ごろごろ(原文ママ、注3)しているというのは本当か?>

まず、ソータパナの定義ですが、質問者様は、<ソータパティ・マッガ・チッタが生じたことが、ソータパナの条件だ>と、コメントに書かれていました。

ソータパティ・マッガ・チッタってなんでしょうか?

日本語で書ける所は、日本語でお願いします。

せめて、日(漢)巴併記にして下さい。

 

 

それはさておき、ソータパティ・マッガ・チッタ(預流の道心)・・・これ、ちょっと外野の方には、分かりにくいですね。

お浚いをしてみましょう。

緬甸のパオ森林僧院で教えているパオ・メソッドでは、まず、止(サマタ)の修行をします。

安般念(出入息念)を入門法とする場合、集中力が高まって、自分の息が光る(nimitta、禅相)のが観えたら、安止定の成功は近い、と言えます。

nimittaが安定して来た修行者が、それを利用して、己の心臓下部にある心基(意門とも言う。光っている)が観えたら、安止定、すなわち、初禅。

初禅に入れるようになって、五禅支を観察できるようになり、五自在の修行に成功すれば、その後は、二禅、三禅、四禅と進み、四禅に入れるようになったら、縁起と名・色分別の修行をします。

縁起の修行は、己自身の過去世(未来世も含む)を観る事、

名色分別は、名(=心と心所)と、色聚(原子より小さく素粒子より大きい元素。また、クオークだと言う人も)の構成(=八不離色等)を分解して、観察する事です。

この段階は、止(サマタ)と観(vipassana)の二股状態。

この二種類の修行に成功したら、16種類の観智の修行に進む。

16観智が、本当の vipassana。

Vipassana とは、名と色の、無常・苦・無我の性質に特化した、観察の事です。

で、最後に涅槃体験を目指しますが、これはなかなか難しいので、ちょっと横に置きましょう。

では、ソータパナとは何か?

私は仏教大学に行ったわけでもなく、理論に精通している者でもないので、以下に書く事は、己の体験も混じっていて、正式の理論とは多少の齟齬があるかもしれませんが、そこの所はお許し願うとして・・・。

パオでは、ソータパナは、この16観智が、ある程度のレベルで成功している人、という事になります(他の僧院の事は知りません)。

しかし、己がソータパナになったかどうかは、あくまで、己自身の<自証>です。

セヤドーは印可しません。

16 観智を成功させる事を通して、預流の道心が生じますが、その時、己の煩悩がどの程度減ったのか?

それは修行する本人にしか分からないからです。

口ではいかようにも、セヤドーに報告する事ができます。

悟りはあくまで、<自内証>なのです。

他人に吹聴する事ではありません。

 

パオでは、16 観智を、繰り返し修行している人は、沢山います。

勿論、俺が!俺が!なんて言う人はいません。

修行が進んでいる人の噂は、自ずと、耳に入ってくるのです(日本の禅宗と違って、パオでは、インタビューは、大きな部屋で、大勢で一緒にやるため、という事もあります)。

現実に、私も修行者が、「16観智の〇〇番目終わりました。次に行きます!」とセヤドーに報告しているのを、聞いた事があります。

セヤドーは「彼は、もう何度も何度も 16 観智をやっている」「食べる間、寝る間を惜しんで 16 観智の修行している」と言っていました。

実際、彼は、定時に托鉢に来ないで(行列しないといけないので)、皆が托鉢を済ませた後にやって来て、残り物をちょこっと貰って帰るだけでした。そんな人もいるのです。

(注1)ソータパナ=預流=四段階ある聖者の内の最初の聖人。

(注2)パオ・メソッドの 16観智の vipassana 修行の事。

(注3)質問者様、<修行者がごろごろ>って、こういう言い方して大丈夫ですか?仏法を語るならば、もう少し丁寧にお話されて下さい。

 

(2に続く)

  <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>