昨日、読者の方から以下のようなコメントを頂きました(お訊ねの内容について、記憶に頼っています。元の文章表現と、多少異なる事があります。あしからず)。
<パオ・メソッドで修行している人たちの内、一人でも、ソータパ(ン)ナ(注1)を証悟する事ができている人はいるのか?
パオでは、(メソッドの)コース(注2)を何度も繰り返し修行している人が、ごろごろ(原文ママ、注3)しているというのは本当か?>
まず、ソータパナの定義ですが、質問者様は、<ソータパティ・マッガ・チッタが生じたことが、ソータパナの条件だ>と、コメントに書かれていました。
ソータパティ・マッガ・チッタってなんでしょうか?
日本語で書ける所は、日本語でお願いします。
せめて、日(漢)巴併記にして下さい。
それはさておき、ソータパティ・マッガ・チッタ(預流の道心)・・・これ、ちょっと外野の方には、分かりにくいですね。
お浚いをしてみましょう。
緬甸のパオ森林僧院で教えているパオ・メソッドでは、まず、止(サマタ)の修行をします。
安般念(出入息念)を入門法とする場合、集中力が高まって、自分の息が光る(nimitta、禅相)のが観えたら、安止定の成功は近い、と言えます。
nimittaが安定して来た修行者が、それを利用して、己の心臓下部にある心基(意門とも言う。光っている)が観えたら、安止定、すなわち、初禅。
初禅に入れるようになって、五禅支を観察できるようになり、五自在の修行に成功すれば、その後は、二禅、三禅、四禅と進み、四禅に入れるようになったら、縁起と名・色分別の修行をします。
縁起の修行は、己自身の過去世(未来世も含む)を観る事、
名色分別は、名(=心と心所)と、色聚(原子より小さく素粒子より大きい元素。また、クオークだと言う人も)の構成(=八不離色等)を分解して、観察する事です。
この段階は、止(サマタ)と観(vipassana)の二股状態。
この二種類の修行に成功したら、16種類の観智の修行に進む。
16観智が、本当の vipassana。
Vipassana とは、名と色の、無常・苦・無我の性質に特化した、観察の事です。
で、最後に涅槃体験を目指しますが、これはなかなか難しいので、ちょっと横に置きましょう。
では、ソータパナとは何か?
私は仏教大学に行ったわけでもなく、理論に精通している者でもないので、以下に書く事は、己の体験も混じっていて、正式の理論とは多少の齟齬があるかもしれませんが、そこの所はお許し願うとして・・・。
パオでは、ソータパナは、この16観智が、ある程度のレベルで成功している人、という事になります(他の僧院の事は知りません)。
しかし、己がソータパナになったかどうかは、あくまで、己自身の<自証>です。
セヤドーは印可しません。
16 観智を成功させる事を通して、預流の道心が生じますが、その時、己の煩悩がどの程度減ったのか?
それは修行する本人にしか分からないからです。
口ではいかようにも、セヤドーに報告する事ができます。
悟りはあくまで、<自内証>なのです。
他人に吹聴する事ではありません。
パオでは、16 観智を、繰り返し修行している人は、沢山います。
勿論、俺が!俺が!なんて言う人はいません。
修行が進んでいる人の噂は、自ずと、耳に入ってくるのです(日本の禅宗と違って、パオでは、インタビューは、大きな部屋で、大勢で一緒にやるため、という事もあります)。
現実に、私も修行者が、「16観智の〇〇番目終わりました。次に行きます!」とセヤドーに報告しているのを、聞いた事があります。
セヤドーは「彼は、もう何度も何度も 16 観智をやっている」「食べる間、寝る間を惜しんで 16 観智の修行している」と言っていました。
実際、彼は、定時に托鉢に来ないで(行列しないといけないので)、皆が托鉢を済ませた後にやって来て、残り物をちょこっと貰って帰るだけでした。そんな人もいるのです。
(注1)ソータパナ=預流=四段階ある聖者の内の最初の聖人。
(注2)パオ・メソッドの 16観智の vipassana 修行の事。
(注3)質問者様、<修行者がごろごろ>って、こういう言い方して大丈夫ですか?仏法を語るならば、もう少し丁寧にお話されて下さい。
(2に続く)
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>