Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 2018年8月10日の翻訳をもって翻訳ワークは終了しました。                     コメント欄は利用OKですが、リトリートに入っている時は回答しません。。

《Vipassanāハンドブック》5-2(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

この二者の間では、死後、悪趣に堕ちる生命は、死亡より尚に、劣悪である。

というのも、四悪趣(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅)と大無間地獄は、ちょうど障礙のない空間にようで、人趣を離れた凡夫に対して、大きく(+口を)開いているのである。

ひとたび、寿命が尽きると、人はどのような地獄にも堕ちる可能性がある。

遠いもの、近いものに関わらず、その受ける苦には、中断する時間的間隙がない。

その後、彼は畜生、餓鬼(可哀そうな鬼、幽霊)に転生するかもしれない;

あるいは、阿修羅に転生して、一瞬のうちに、帝釈天の敵になるかも知れない。

同様に、もし、一人の人間が、欲界の六欲天において世を去るならば、(いったん生命の終りに、彼はどこかの地獄に落ちるかもしれないが)しかし、彼が色界または無色界において、その寿命が尽きたならば、彼は四悪趣に堕ちる事はなく、人、または天人になり、そして、その後に四悪趣に堕ちる。

なぜ、我々は:

「すべての生霊は、みな死ぬのを怖がる」

と言うのか。

というのも、死後、四悪趣に堕ちるかも知れないからである。

もし、死後、悪趣に堕ちないのであれば、また、我々自身が、再生の場所を選択することができるのであれば、真にその通りにできるのであれば、人々はこれほど、死を怖がることはない。

ある種の状況おいて、ある種の人々は、相当長い歳月生きて、他趣に往生したいと願う時、死にたいと思う事が、あるかも知れない。

人趣に生まれることがどれほど殊勝であるかを説明する為に、《爪頂経》(nakhasikha)と《盲亀経》(kanakaccapa)を引用する。

(5-3につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<《Vipassanāハンドブック》 (原題 Vipassanā Dipanī)

Ledī sayādaw著 中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>