<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(一)遍行心所
1、触:
触とは所縁に接触するという意味である。
その事によって、好ましい、または好ましくない心境が生じる。
その為に、それは、心所を生じせしめる主要な要因となる。もし「触」がないのであれば、一切の所縁は、意味がなくなる(=作用、価値がなくなる)。
2、受:
味を味わう受覚。すべての衆生は、この受覚の内に溺れこむ。
3、想:
認知、認識の行為。すべての衆生が、もし充分に明晰で、己自身の方式、習慣、信念でもって物事を認知、認識するならば、彼らはそれによって更に聡明になる。
4、思:
心所が活動するのを決定する能力。世間的な言い方においては、我々は習慣的に、以下のように言う:
「ある人物が、ある作品を(+作る)指導をした。または、彼は、ある作品の作者である」
我々はまた、このようにも言う:
「これは誰それの作品だ」
または
「これは誰それの傑作だ」
道徳に関連する事柄もこのように言われる。
思は、また行為者(doer)とも言われる。
というのも、それは、心所の活動を決定するし、また、それは、身口意の三業を、発動するが故に。
生命における成功は、身口意によって創作された作品を、努力して発表する事によって得られるものである。
同じく、新しい生命もまた思(volition)の結果である。
(異なった時期の思は、時には希望といい、時には欲望といい、または身口意の業というが、それは過去世おいて造(ナ)されたものである。)
大地、水、山、樹木、草など等は、皆、四大によって生じるが、または「火」大によって生じる。
各種各様の衆生は、「思」から生まれるのだと言える。
すなわち、いわゆる業界(kamma-dhātu)である。衆生は、皆業によって生まれるが故に。
5、一境性:
心の専注を言い、また正定とも言う。
定(sampatti)の内において、心の専注は、更に明確になる。
6、命(jīvita):
精神的生命の事。
jīvitaは、心法を持続させる方面における(+役割は)非常に顕著である。
7、作意:
それの機能は、所縁を意識の中に引き入れる事である。
以上の七種が、遍行心所(sabba-cittaka)と言われる。
それらは、すべての識を構成するが故に。
(8-6につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<《Vipassanāハンドブック》 (原題 Vipassanā Dipanī)
Ledī sayādaw著 中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>