Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

《Vipassanāハンドブック》20-13(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

もし、人が、「このポットのような物は、世界に存在しているか?」と問うたならば、あれら、ニ種類の真理ーー真諦と俗諦を区別することのできない人々は、以下のように言う:

「このポットは存在する」

その後に、それらの人々は、このポットを指差す。

彼らは手元にある、土で出来たポットを見て言う:

「これがポットでしょう?」

しかし、彼らが泥土をポットであると言う時、それは不正確なのである。

それは間違った陳述である。

なぜか?

というのも、泥土は、一種の基本的事物であり、かつ実質、または実体がある;

ポットは一種、実質または実体を持たない概念であり、故に、空間と同じ様に、空であり、有るとう事がない。

泥土をポットだと主張する人が、実際に言いたい事柄は:

泥土は、ポットを構成する本質または実体である・・・これは事実ではある。

しかし、ポットが見えるという事は、単なる心識の作用に過ぎず、ポット自体には、永恒不変の実体がある訳ではない。

ここいおいて、実際には、実体のないポットが、現存するポットとなり、泥土もまた、実体のある地大(the earth)となる。

故に、泥土とポットは、まったく同じものとなってしまい、二者の特性が混同されてしまう事になる。

上に述べたことから、我々はこれを錯誤の陳述と言うのである。

この例では、ポットと人間またはその他の衆生と比べる時、泥土は人間の五蘊、またはその構成要素ーーすなわち、色法と心法に相当する。

ちょうど、泥土が陳述の中では、ポットになってしまうのと同じ本質を持っているものである:

泥土は、ポットである;

故に、五蘊またはその他の構成要素を atta とするのは、すなわち、人間と動物の本質を(言い表しているのである)。

人々が、五蘊は人間であり衆生であると言う時、それは atta の意味なのである。

次に、無我(anatta)について検討してみる。

(20-14につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<《Vipassanāハンドブック》 (原題 Vipassanā Dipanī)

Ledī sayādaw著 中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>