<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
もし、人が、「このポットのような物は、世界に存在しているか?」と問うたならば、あれら、ニ種類の真理ーー真諦と俗諦を区別することのできない人々は、以下のように言う:
「このポットは存在する」
その後に、それらの人々は、このポットを指差す。
彼らは手元にある、土で出来たポットを見て言う:
「これがポットでしょう?」
しかし、彼らが泥土をポットであると言う時、それは不正確なのである。
それは間違った陳述である。
なぜか?
というのも、泥土は、一種の基本的事物であり、かつ実質、または実体がある;
ポットは一種、実質または実体を持たない概念であり、故に、空間と同じ様に、空であり、有るとう事がない。
泥土をポットだと主張する人が、実際に言いたい事柄は:
泥土は、ポットを構成する本質または実体である・・・これは事実ではある。
しかし、ポットが見えるという事は、単なる心識の作用に過ぎず、ポット自体には、永恒不変の実体がある訳ではない。
ここいおいて、実際には、実体のないポットが、現存するポットとなり、泥土もまた、実体のある地大(the earth)となる。
故に、泥土とポットは、まったく同じものとなってしまい、二者の特性が混同されてしまう事になる。
上に述べたことから、我々はこれを錯誤の陳述と言うのである。
この例では、ポットと人間またはその他の衆生と比べる時、泥土は人間の五蘊、またはその構成要素ーーすなわち、色法と心法に相当する。
ちょうど、泥土が陳述の中では、ポットになってしまうのと同じ本質を持っているものである:
泥土は、ポットである;
故に、五蘊またはその他の構成要素を atta とするのは、すなわち、人間と動物の本質を(言い表しているのである)。
人々が、五蘊は人間であり衆生であると言う時、それは atta の意味なのである。
次に、無我(anatta)について検討してみる。
(20-14につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。
<《Vipassanāハンドブック》 (原題 Vipassanā Dipanī)