Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

《Vipassanāハンドブック》20-15(F)(70/80)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

仏教の哲学の中で、三種類の永恒不朽があるが、この三種類の不朽は、本文中において、特定の意義を付与されている。

この三種類の不朽は、パーリ語では:

paññatti(概念または観念)、

ākāsa(空間)、

nibbana(涅槃)である。

涅槃は貪、瞋、痴の完全な滅である。

人々は以下の様に思う:

この三種の不朽的な存在は、時間とは関係がなく、かつ、時間の制限を受けることがない。

生・滅法は、すべての、その他の事物に適用すれるが、それらには適用されない。

それらの存在と、「何か特定の人がそれらについて思考するかどうか」とは、関係がない。

言い換えれば、それらは永恒不朽であり、かつ時間とは無関係であり、如何なる状況の下にあっても、また、時間的相続の不断の中で、それらは如々不動なのである。

涅槃と、その他の二種類の不朽は、同じものではない。

というのも、涅槃は、寂止相(santilakkhaṇa)であり、それは、寂静の特性を持つが故に。

しかし、一般的な人と衆生の観念のうちにおいては、壊相と変異相を見る事は出来ない。

また、一般的な人と衆生でも、その「観念」の中においてならば、壊相と変異相を発見する事が、出来るかもしれない。

当然、観念自体も生・滅しており、一日の内に、観念は何度も何度も生・滅するのである。

我々は、観念のうちにおいて、壊相と異変相を見る事はできない。

我々は心法と色法の中においてのみ、それらの壊相と異変相を観察する事ができる。

故に、その結果、心法と色法は、人と衆生の本質、または実体とは、見做されない。

そうであるから、本文に依ると、無我相は無常相になり、実体が無いが故に、anatta(無我)という、この文字が、用いられるのである。

苦相は如何にして無常相になるのか?

苦相は非常に良くない事、不利な事柄であって、人をして、極めて満足させえない;

すべての衆生は、みな、良い状況にありたいと願っており、順調で満足の中にいたいと思う。

もし、精神と物質的現象が、人と衆生にとって、真実の本質であるのであれば、これらの現象は、人間と完全にイコールであるという事が言える。

 真実その通りであるならば、彼らの欲望もまた、完全に同一であるはずである。

しかし、事実はその様ではなく、故に、一つひとつの事物と、もう一つ別の一つひとつ事物は、別けなければならない。

ここにおいて、我々は「人間の欲望」とは、貪欲(lobha)、意欲(chanda)を指すと提言したが;

「現象の願望」の意味とは、事柄の発生は、それら自身の原因から起こるのである、という事である。

(20-16につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<《Vipassanāハンドブック》(原題 Vipassanā Dipanī)

Ledī sayādaw著 中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>