<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
仏教の哲学の中で、三種類の永恒不朽があるが、この三種類の不朽は、本文中において、特定の意義を付与されている。
この三種類の不朽は、パーリ語では:
paññatti(概念または観念)、
ākāsa(空間)、
nibbana(涅槃)である。
涅槃は貪、瞋、痴の完全な滅である。
人々は以下の様に思う:
この三種の不朽的な存在は、時間とは関係がなく、かつ、時間の制限を受けることがない。
生・滅法は、すべての、その他の事物に適用すれるが、それらには適用されない。
それらの存在と、「何か特定の人がそれらについて思考するかどうか」とは、関係がない。
言い換えれば、それらは永恒不朽であり、かつ時間とは無関係であり、如何なる状況の下にあっても、また、時間的相続の不断の中で、それらは如々不動なのである。
涅槃と、その他の二種類の不朽は、同じものではない。
というのも、涅槃は、寂止相(santilakkhaṇa)であり、それは、寂静の特性を持つが故に。
しかし、一般的な人と衆生の観念のうちにおいては、壊相と変異相を見る事は出来ない。
また、一般的な人と衆生でも、その「観念」の中においてならば、壊相と変異相を発見する事が、出来るかもしれない。
当然、観念自体も生・滅しており、一日の内に、観念は何度も何度も生・滅するのである。
我々は、観念のうちにおいて、壊相と異変相を見る事はできない。
我々は心法と色法の中においてのみ、それらの壊相と異変相を観察する事ができる。
故に、その結果、心法と色法は、人と衆生の本質、または実体とは、見做されない。
そうであるから、本文に依ると、無我相は無常相になり、実体が無いが故に、anatta(無我)という、この文字が、用いられるのである。
苦相は如何にして無常相になるのか?
苦相は非常に良くない事、不利な事柄であって、人をして、極めて満足させえない;
すべての衆生は、みな、良い状況にありたいと願っており、順調で満足の中にいたいと思う。
もし、精神と物質的現象が、人と衆生にとって、真実の本質であるのであれば、これらの現象は、人間と完全にイコールであるという事が言える。
真実その通りであるならば、彼らの欲望もまた、完全に同一であるはずである。
しかし、事実はその様ではなく、故に、一つひとつの事物と、もう一つ別の一つひとつ事物は、別けなければならない。
ここにおいて、我々は「人間の欲望」とは、貪欲(lobha)、意欲(chanda)を指すと提言したが;
「現象の願望」の意味とは、事柄の発生は、それら自身の原因から起こるのである、という事である。
(20-16につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<《Vipassanāハンドブック》(原題 Vipassanā Dipanī)