Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 コメント欄はどなたも利用OKですが、リトリートに入っている時は回答致しません。

般若の独り言~仏教における異性性の統合

子供の頃から大乗仏教の正当性に疑問を抱いていた私は、20代の時に大乗非仏説を知って大乗を放棄。30歳を過ぎた頃、一年に一度、タイのテーラワーダの森林僧院を訪れて、聞法と修行をするようになりました(注1)

ある時、修行の合間の休憩時間に、何人かの比丘が輪になっておしゃべりをしていたので、私もその輪に加わって傍で話を聞いていました。暫くすると、その輪の中にいた住職さんがこう言いました「これから男同士の話をするので、君はクッティに帰って下さい」

仏教は本来、性(の取り扱い)については大変に厳しいです。

日本の大乗仏教の僧侶は、結婚して子をなして、寺院が家庭の様を呈しても慙愧を覚える事がないけれども、中国、台湾の大乗の僧侶に女犯は厳禁。テーラワーダともなれば、比丘は、女性の噂話をするだけでもご法度。

では、なぜ仏教は、男性は女性に、女性は男性に触れる事に、これほど厳しく制限するのでしょうか?

単に<戒律だから>というのであっては、それは教条であり、一種の思考停止であり、仏法に対して、正しく思惟・思考を深める事のできない人間には、ゴータマ仏陀が制定した、在家なら正しい夫婦関係を守れ、出家なら異性に触れるなという「不邪淫戒」を守りきれない。

在家の人々に「正しい夫婦生活を守るように」と呼びかけるのは、不倫や浮気をされた事によって夫婦関係に亀裂が走り、やがては家庭が崩壊するであろう、そのような悲劇を引き起さない為にも、世俗一般の利益を守るという意味において必要なダンマであると思います。

では、出家比丘、出家比丘尼テーラワーダのSayalayは、出家である以上、異性に触れてはならないという、この要求の厳しさは、何をもって根拠とし、何をもって担保されているのでしょうか?

それは、仏教は、人間の真の自立、独存を目指しているからだ、と私は思います。

我々は、ゴータマ仏陀の教えに従って、日々精進する事によって、一切の虚妄を排し、無明を断った時、最高の悟りの境地、涅槃または<能知の独存>が達成される。

無明を徹底的に滅ぼし去った後に立つ心の位相である<能知の独存>の中に、異性への憧れ、異性への性的、心理的依存は含まれない。能知の独存が達成された時、一人の阿羅漢の心の中の、男性性と女性性は完璧な統合がなされている。

仏陀の教えは、ただ異性を避けて、一人お寺に籠ればよい、という浅薄なものではないであろう。

解脱を目指す仏教徒であるならば、男性も女性も、己にとっての外部的存在、異物である異性に対して、毛一筋程も心が動揺することのない、己の中の内なる統合(男性性と女性性の統合)が、求められるのではないでしょうか(注2)

大乗から見て、テーラワーダは戒律主義だと揶揄される事が多いけれども、戒律を守る事によって見えてくるもの、戒律を守りきれない事によって見えてくるもの、それは己の心のリトマス紙であって、リトマス紙を捨て去った仏法は、やがて衰退するであろうことは、みなさんもよくご存じだと思います。

(注1)現在の私は、大乗否定一辺倒ではなく、テーラワーダと大乗は、共通点を模索し合って、いずれは統合した方がよいと考えています。但し、安易な三乗説は採らない。

(注2)密教で言われる<男女双修>は本来、男性性と女性性の統合を象徴化した概念であったのではないか、と私は考えています。密教学者でもなんでもない、外野・・・Sayalayの思いつきですけれど。

        <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>