Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 コメント欄はどなたも利用OKですが、リトリートに入っている時は回答致しません。

般若の独り言~<色蘊と名蘊>に関する覚書

「蘊」は、パーリ語では<カンダ>で、<塊>の意味。

「色蘊」(ルーパ・カンダ)は、色(物質、身体)の塊、すなわち、鉄より柔らかく、綿よりは硬い身体の事を言う(自己の外部にある物質も含む)。

我々の身体は、蛋白質で出来た細胞が、ぎゅっと集まって人体を形成しているのだけれども、仏法では、「<色聚>が集まって人体を形成している」と言う。

色聚は、細胞より小さいクォークまたは素粒子を意味している。

2600年前、ゴータマ仏陀が、身体(と物質)は素粒子で出来ている事を発見した時、これをどのように説明すれば、凡夫にも分かって貰えるのか、非常に苦慮した事は、経典にも書かれている(「梵天勧請」)。

身体というものは、本来は、刹那生・滅を繰り返す<色聚>(クォークまたは素粒子状のもの)が、集まって出来ているのだが、我々には、肉体としての<塊>、常にそこに存在するものとして感じられるので(これが凡夫の誤解、すなわち、無明)、それを<色蘊>と呼ぶ。

では<名蘊>(ナーマ・カンダ)とは何か?

名蘊は分解すれば受蘊、想蘊、行蘊、識蘊である。

アビダンマを知らない方でも、般若心経には、受、想、行、識が出て来るのは御存じでしょう。

さて、この名蘊(受蘊~識蘊)は、どのように理解すればいいのでしょうか?

『趣味の量子力学』(広江克彦著)では、以下のように書かれている。

☆観測とはいったい何だろう。何かを知るためには対象に触れなければならない。ミクロの世界では、すべてのものが小さい為に、普通に体験しているような意味での「触る」行為は出来ない。

我々の指先でさえも、細かい粒で出来ている。その粒の一つ一つが対象にぶつかり、跳ね返ってきたものを分析する事でしか、対象を知るは出来ない。☆

 

我々の指が物に触れると、我々の指の粒子が、対象物の粒子とぶつかり、その情報が、指先から波動のように意門に伝わる、または意門から出た心心所が、指先まで波動状の、情報を取りに行く(波動状の情報は、観察される事によって、粒の様相に収斂する)。

この時の、指先に生まれる波動が、受蘊と呼ばれるのではないのか?(目に当たる波動は眼触であり、耳触、舌触などもある故、それぞれに受蘊、行蘊、想蘊、識蘊が生まれる・・・はず)

想蘊、行蘊、識蘊の説明は、今の私にはちょっと難しいけれど・・・。

 

上記著者は「瞑想でこれを知ろうとする人がいるのを知っているが、多分成功しないであろう」と言っている。

私は、彼の言う所の「瞑想でこれを知ろうとする人」である。

禅定に入り、慧眼が生まれ、心による<直接知覚>ができるようになったならば、色蘊、名蘊は、直接(心によって)触れ、観察することができる。

これを心路過程を使わない認識方法、すなわち

<直接知覚>また<如実知見>と言う。

学者さんには学者さんの役割があって、私は彼らをリスペクトしており、故に、無暗に論争したいとは思わないけれども、私は私の道を、究めてみたいと思っている。

★私のライフワークでありました仏教書の翻訳は、2018年8月10日をもって終了致しました。「智慧の光」「如実知見」「菩提資糧」「パオ・セヤドー問答集」(パオ・セヤドー

シリーズ)「37道品ハンドブック」「Vipassanaハンドブック」(Ledī sayādaw 

シリーズ)「掌中の葉」「24縁発趣論」「基礎発趣論」「メーチ・ケーウの物語」

「阿羅漢向・阿羅漢果」などなど(約20冊)を講読ご希望の方は、ブログの中から見つけてご閲覧下さい。一部は<菩提樹文庫>にも掲載されています。

  <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>