Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

般若の独り言~曽我氏の<無我>説に関する覚書

私は、曽我逸郎氏とは、20年前、私が修行の為、モーラミャインに出発する直前に、東京でお会いしたことがあり、知人であると言えば知人ですが、お会いしたのはその一回きり、その後、交流はほぼありません。

曽我氏は、長野県中川村の村長を退任されて、最近、「無常ー縁起ー無我<苦をうまない生き方>」という著書を上梓され、私に「読んで感想を述べて欲しい」というメールを送って来られました。

私は10月4日現在、この本をいまだ読んでおりません。いずれ図書館で借りて読んでみたいと思っています。

ただ、先日、曽我氏の facebook に、小出裕章氏(京都大学助教退官、原子力研究者)が「『無我なら誰が行為の責任を取るのか?』という疑問を発した事」が書かれていましたので、私も一言(当該の著書を読んでいないので、著書への直接の批判ではありません)。

本来、ゴータマ仏陀は無常・苦・無我と言ったと思います。

なぜ曽我氏はそれを、<無常・縁起・無我>と置き換えるのか、ちょっと理解できません(注1)

定義をお浚いしてみます。

無常=名(心心所)と色聚(素粒子)は、非常な速さで生・滅している。

苦(不円満)=名色の生・滅を止めようとしても止められないので、物・事は、不円満を内包する。

無我(1)=名色の生・滅は縁(自然の理法)によって生じているので、物・事の発生には、創造神とか主宰者というものの存在は介在しない。2600年前のインドでは<我>アートマン(&ブラフマン)は、創造神という意味を持っていたので、物事の生起に神は介在しないとしたゴータマ仏陀の<無我>説は、画期的だったと思います。

無我(2)=我々有情が持つ属性(美醜、聡明、愚鈍、感性などを含む自我、アイデンティティ)は、業と縁によるものであって、悟ればそれが、<本来無>である事がわかる。

曽我氏は、無我(2)に立脚して、美醜、聡明、愚鈍等の属性は<本来無>なのであるから、それらのことで苦を齎さないような生き方をしようではないか、と、我々に呼びかけているように思えます。

問題は、我々は、無常・苦・無我(彼の言い方なら無常・縁起・無我)以外に<業>を抱えている事です。

縁起を12縁起であると理解するならば、我々は、無明を抱え、貪・瞋・痴の三毒を抱え、日常的に七転八倒している生き物だという事になります。

ただ、ゴータマ仏陀の偉大な発見・・・心・心所と色身(色聚)は、刹那に生・滅する無常なるものであるから、業は切断することが出来る。

業を切断するには、凡夫には、如理作意が有効である(聖者阿羅漢になれば、唯作心になる)。

如理作意は正知(気づき、マインドフルネス)、正念による定(遍作定等)を獲得する事によって得る事ができる。

小出氏に「無我なら行為の責任は誰が取るのか?」と質問されたということは、曽我氏の主張に、<我々の行為は、縁起によって発生するが故に、何をやっても無罪である>という種類の<縁起免罪説>が含まれているものと推測されますが、縁起説は、業説でもある事を忘れてはならないと思います(業の余りの深さに、それを潔くそののまま受け入れるという生き方・・・親鸞など・・・はありですが、業による行為には、責任が伴うと私は思います。)

著書を読む機会がありましたら、次は著書の内容を踏まえた上で、読後感想文を書きます(その場合は、曽我氏に知らせます)。

今回は、小出氏の発言から連想した<思いつき>を書いてみました。上記の意見は、当該著書の内容とは、直接には無関係である事を申し添えておきます。

(注1)この件につき、思う所有りまして、翌日のブログにしたためました・・・《曽我氏はなぜ三法印を言わないのか》(10/05)参照の事。

  <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>