Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(3-13)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

例えば、仏陀は《増支部・証智経》(Abhiññā Sutta)の中において、以下の様に述べる:

”比丘たちよ。

どの様な法が、智の証得を通して、修習されなければならないか?

止と観である(注5)(samatho ca vipassanā ca)。

比丘たちよ。

これらの法は、証得された智でもって修習されるべき

(+法)であると呼ばれる。”

《増支部》の義註においては、証得された智でもって止を修習するという意味は、一境性(cittekaggatā)を育成する事である、と説明する。

それは定(samādhi)に相当し、またすなわち、《清浄道論》で言う所の心清浄(cittavisuddhi)であり、それは八定(aṭṭha samāpattiyo)と呼ばれる所の、四種類の色界ジャーナと四無色定を含み、それはまたすなわち、すべての安止定(appanāsamādhi)でもある。

心清浄はまた、近行定(upacārasamadhi)を含むが、それはまさにジャーナに到達したのと同じくらいに、その定力が深いが故である。

<注5>義註では、観(vipassanā)を、行摂受観智(saṅkhārapariggahavipassanā-ñāṇaṃ)であると説明している。

行摂受=名色摂受=究極色法、究極名法及びその因をしっかり把握する事を言う。複註では、無常[・苦・無我]などの種々の行相(vividhenākārena)の照見を、観であるとしている。

(3-14につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。

<『涅槃証悟の唯一の道』パオ・セヤドー著 (原題「証悟涅槃的唯一之道」)

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>