<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(原文P89 )
禅修行者:
私はどのようにすれば、己に、般若の智慧が生起した事が分かりますか?
禅師:
あなたは非常にはっきりと、明晰・明確に、分かります。
あなたは ”ああ、今、自分は腹の底から分かった” と体験します。
これが真正なる領悟であり、概念上の理解を超えています。
あなたはそれを、己自身で分かります。
他人に聞く必要はありません。
禅修行者:
私は覚知の修習をしています。
覚知を覚知することは、業を造(ナ)しているのでしょうか?
禅師:善業をなしている、と言えます。
禅修行者:
善業の意味は、善道に往生するか、または輪廻しないという事ですか?
禅師:
(+善業とは)善道に往生する事、善なる性格、善なる心、の事です。
覚知とは、ただの業であり、一種の行動なのです。
この行動(=業)によって、智慧が生じた時にだけ、すなわち、輪廻を終わらせる事のできる智慧の中においてだけ、業は善の果を生む事ができる。
輪廻は、業によっては、止めることは出来ない。
輪廻は唯一、智慧ーー般若の智慧によってのみ、止めることができるのです。
(Fにつづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。
<《Awereness Alone is not Enough》より改題/抜粋翻訳
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>