Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

スポット翻訳【般若の智慧のなかりせば】(G)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(原文P176)

禅修行者:

あなたは、我々はそれほど努力しなくても、非常に多くの対象を、覚知できると言います。

それはどういう事ですか?

禅師:

あなたの覚知が、益々長時間持続できるようになった時、あなたは、対象の数だけ、心がある事に気が付くでしょう。

修行を続けていると、あなたはこれらは単なる自然の運行にすぎず、心理的、生理的活動の現象に過ぎず、”あなた” とは関係がない事が分かるでしょう。

我々は、心と心の対象は、単なる自然現象である事を理解する以前、我々は ”我(己自身)” が観察しているのだ、と誤解してしまうのです。

あなたがものを見る時、注視するが故に見えるのですか?

それとも、あなたがあなたの視線をそれに向けさえすれば、それが見えるのですか?

もし、あなたが、それに注視する事によってそれを見ているならば、それは貪心が作用・運行しているのであって、知見に間違いがあります。

実際は、あなたには(+視力という)視覚能力があり、故に、自然に当然に、見ることができるのです。

このように理解できるなら、それは智慧です。

この種の原則は、我々が無常なるものを見ている時も適用できます。

事物は生じては滅して行きますが、我々が見たのが原因で滅する、というものはありますか?

禅修行者:

ありません。

禅師:

ある種のものが、あなたが見る事によって消失するならば、これはいまだ無常の真実は顕現していない、と言えます。

そしてあなたは喜び、傲慢になるでしょう:

「私は無常を見た。私が見ると、ものが消える」と言って。

しかし、実相とこの事とは、まったく別々の事柄なのです。

自然はすなわち無常であり、無常は、一切の現象の構成部分なのです。

唯一、成熟した心のみが、諸法無常を理解する事ができ、あなたがひとたび無常を理解したならば、あなたは、苦と無我もまた、理解することが出来ます。

木の葉が落ちて来て初めて、それは無常である、と言いますか?

それとも、木の上で、葉っぱは、すでに無常なるものでありますか?

(Hにつづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。

<《Awareness Alone is not Enough》より改題/抜粋翻訳

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>