<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(原文205)
禅修行者:
もし、慧と信のバランスが悪い時、多くの問題が生じますが、信が薄弱な時は、疑惑が出てきませんか?
禅師:
その通り!
五根は、共に運用されるべきであり、その中の一つだけが突出して強く、多くの仕事をしすぎると、その他の四根に蓋をする事になり、その時、四根は作用を発揮できなくなり、仕事ができなくなるのです。
もし、有る人の定が強すぎる時、慧が足りなくなり、その場合も、成長する事ができない。
精進もまた、深すぎる定によって、成長する事ができなくなり、念までもが鋭敏でなくなり、(+その結果)慧、精進と念は、上手く運用することが出来ず、その為に、信もまた削がれてしまい、結果、修行者は、修行に対して、興味を失ってしまうのです。
もし、慧根が強すぎる時、智力が多すぎて、多すぎる疑問、多すぎる思考の為に、その結果、定がなくなってしまい、心は不安定になってしまう。
そして、その結果、精進と念が衰えてしまい、信もまた、崩れ去ってしまうでしょう。
五根は、必ずや、バランスさせる事。
バランスさせてこそ、有効的に仕事(=修行)ができるのです。
禅修行者:
あなたは智力という言葉を、智慧と同じ意味に使っています。私は、智力は、智慧ではないと思いますが・・・。
禅師:
我々は、先ほど、三種類の智慧があると、話し合いました:
聞慧、思慧、修慧です。
私がさきほど述べた智慧は、応用することができる智慧で、それはすなわち、前二者の智慧です。
もし、あなたに修慧があるならば、一切(+の状況)において、バランスの取れた状態を、保つことができるでしょう。
修慧は、永遠に、多すぎるという事は、有り得ません。
あなたは修慧を ”インプット” する事もできないし、創造する事もできません。
ただ五根を調整して、そこに現れる結果を、我々が ”インプット” する事になります。
禅修行者:
よく分かりました。
修慧が、より深くより微細である時、信念はより強くなりますが;
信念がより強い時、修慧がますます深く微細になる、という事ではないのですね。
(Jにつづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。
<《Awareness Alone is not Enough》より改題/抜粋翻訳
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>