Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

スポット翻訳【般若の智慧のなかりせば】(K-1)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

禅修行者:

択法と念明覚(sati-sampajañña)は、どの様に異なり

ますか?四種類の念明覚について解説して頂けませんか?

禅師:

二者は共に智慧の事です。《念住経》において、念は明覚を伴わなければならない、と書かれています。

この二者は、同時に具足されなければなりません。

四種類の明覚は、すべて智慧と関係があります。

簡単に言えば、

一番目の有益明覚(sātthaka-sampajañña)と

二番目の適宜明覚(sappāya-sampajañña)は、

聞慧と思慧に相当し、我々の実際の修行と関係があります。

禅の修行において、動力を得て、智慧が成長した後、我々は三番目の明覚、すなわち、

行処明覚(gocara-sampajañña)を体験して、

個人は存在しない事、ただ心身の過程があるに過ぎない事を理解します。

最後の一つの明覚は、

無痴明覚(asammoha-sampajañña)で、

その内実は、無常・苦・無我への理解です;

この二種類の明覚は、修慧に属します。

前の二種類、すなわち有益明覚と適宜明覚は、因であり;

後ろの二種類は果です。内観(vipassanā)はここにおいて、生起します。

あなたは、<今・ここ>において何事かをなす<心>を見ることができますが、あなたは画面全体(=生起している事柄の全体像)を見ているでしょうか?:

覚知の範囲、心はどの様に精力(=気力、エネルギー)を応用するか、心は如何にして対象と連携を取るかなど等、心は次々と、 ”今、私は何をすべきなのか?” と自問します。

ただ対象を睨み付けているだけではダメなのです。

”純粋な覚知”とは何か、一度疑ってみる必要があります。これは何を意味しているのでしょうか?

前の二種類の明覚は、常識的な智慧です。

あなたが禅の修行をする時、智慧が仕事をしており、智慧が修行の進め方をあなたに教えているのです。

日常生活の中でも同じことが起こっており、この種の常識的な智慧が働いて、あなたが何かの行動を起こす前に、(+心は)明智を伴った決定を下していて、これらの事柄が(+自分と他者にとって)適切であるかどうか、利益を齎すかどうかを、明確に知る訳です。

(K-2につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。

<《Awareness Alone is not Enough》より改題/抜粋翻訳

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>