Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

スポット翻訳【般若の智慧のなかりせば】(K-2)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

禅修行者:

私はいまだ、念明覚と択法の区別ができません。

禅師:

この二者は、重複しています。

ただ、前ニ者の明覚だけが、択法に属します。

これは私の、個人的な理解です。

行処明覚について、私はもう少し説明を続けましょう。

言い換えれば、心が、ますます物事の法性に注意を払う時、そしてそれが概念ではない時、それは行処明覚が作用しているのだ、と言えます。

この状況は、禅の修行において、動力を得た後に発生しますが、心はほぼ、自動的に状況の本質を観察して、それは決して概念ではありません。

そして(+概念ではない、ものごとの)本質が智慧の牧場となります(これが行処ーーgocaraーーの本当の意味です)。

禅の修行者が、もし、この種の明覚を長時間維持することができるならば、無常・苦・無我の本質を誤解することは、ありません。

禅の修行者が、多くの時間を費やして、禅の修行中に、無常・苦・無我について思惟し続け、思考し続けて、真正にそれを理解しない、体験しないのであれば、それらに対する直感的、直覚的な体験・証悟を獲得する事はありえません。

これが、私が仏法を説明する時に、これらの単語、言葉を使うのを、嫌う理由です。

私は、禅の修行者が、彼自身の上に起こった真実の体験談・・・何を観察し、何を体験したかを話すのを聞くのが好きであり、無常や無我を見たと報告されても、これらの言葉には、何等の意味・意義もないのです。

禅の修行の時、静けさを保ち、覚知を保持する様、努力するだけでは足りないのです。

あなたは五根すべてが、作用しているかどうかを、検査しなければなりません。

あなたは以下の様に自問することができます:

「私は今、私がしている事に対して、確信、自信が持てているだろうか?

私は本当に、自分が何をしているかを、知っているだろうか?」

経験の深まりに伴って、あなた五根が作用しているかどうかを知ることができる様になり、かつ、それがバランスを保て得ているかどうかも、知ることができる様になります。

(K-3 につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。

<《Awareness Alone is not Enough》より改題/抜粋翻訳。

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>