<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
我々はすでに、究極諦に基づいて ”膝が痛い” とはどういう事であるかを、解説した。
では、今、私はあなたに聞きたい;
本当に膝が痛いのであろうか?
否!
それは、一種の表現方式にしか過ぎない。
痛みは一種の感受であり、感受とは一種の心所であり、一種の名法である。
身識及び、それに相応する七つの心所以外、その他の名法が、あなたの膝、背中、頭部等に生じることはない。
心所は常に、識と共に生起する;
すなわち、識は常に、心所を伴って同時に生起する。
身苦の心所は、身識と共に生起するが、それは触所縁が、通俗的な表現で言えば ”膝頭” と呼ばれる所の、身浄色を打つ事によって生起する。
故に、あなたが膝頭において、この二種類の色法しか見ることができない:
それは、身浄色と俱生の身門52色、及び触所縁であり、名法もまた、身識とそれに相応する七つの心所しか、見ることが出来ない。
この二種類の色法を観察するには、身の随観において、四界分別の修習をしなければならない。
その後あなたは、膝頭というものは存在せず、それは一塊の、異なった究極色法によって構成された色聚が、不断に生・滅しているだけなのだ、という事を発見するであろう。
これらの色聚の中で、身十法聚と呼ばれるものがあるが、それは 10種類の色法によって構成されており、その内の 10番目のものは、身浄色と呼ばれる。
これこそ(=この様に観察する事)がまさに ”身随観身において”(kāye kāyānupassī) なのである。
もし、あなたが、触所縁が膝頭の身浄色を打ったが為に生起した所の、受を観照したいと思うならば、身触生苦受と、身触と身識が、同時に生起するのを観照する必要があるが、それはすなわち、識が触所縁を知る所の、心路過程の中の身識と、それに相応する所の所縁を、観照する必要がある事を意味している。
これらの心路は五門心路(pañcadvāravīthi)の内の一つであり、身門心路(kāyadvāra vīthi)と呼ぶものである。
そして、その後、無数の意門心路(manodāra vīthi)が生起し、かつ同じ所縁を識知・認識する。
これらの心路の内における心は、その心所と共に同時に生起し、それはまた触と受を含むものである。
(3-48につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。
<『涅槃証悟の唯一の道』パオ・セヤドー著 (原題「証悟涅槃的唯一之道」)
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>