Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 コメント欄はどなたも利用OKですが、リトリートに入っている時は回答致しません。

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(3‐47)

 <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

我々はすでに、究極諦に基づいて ”膝が痛い” とはどういう事であるかを、解説した。

では、今、私はあなたに聞きたい;

本当に膝が痛いのであろうか?

否!

それは、一種の表現方式にしか過ぎない。

痛みは一種の感受であり、感受とは一種の心所であり、一種の名法である。

身識及び、それに相応する七つの心所以外、その他の名法が、あなたの膝、背中、頭部等に生じることはない。

心所は常に、識と共に生起する;

すなわち、識は常に、心所を伴って同時に生起する。

身苦の心所は、身識と共に生起するが、それは触所縁が、通俗的な表現で言えば ”膝頭” と呼ばれる所の、身浄色を打つ事によって生起する。

故に、あなたが膝頭において、この二種類の色法しか見ることができない:

それは、身浄色と俱生の身門52色、及び触所縁であり、名法もまた、身識とそれに相応する七つの心所しか、見ることが出来ない。

この二種類の色法を観察するには、身の随観において、四界分別の修習をしなければならない。

その後あなたは、膝頭というものは存在せず、それは一塊の、異なった究極色法によって構成された色聚が、不断に生・滅しているだけなのだ、という事を発見するであろう。

これらの色聚の中で、身十法聚と呼ばれるものがあるが、それは 10種類の色法によって構成されており、その内の 10番目のものは、身浄色と呼ばれる。

これこそ(=この様に観察する事)がまさに ”身随観身において”(kāye kāyānupassī) なのである。

もし、あなたが、触所縁が膝頭の身浄色を打ったが為に生起した所の、受を観照したいと思うならば、身触生苦受と、身触と身識が、同時に生起するのを観照する必要があるが、それはすなわち、識が触所縁を知る所の、心路過程の中の身識と、それに相応する所の所縁を、観照する必要がある事を意味している。

これらの心路は五門心路(pañcadvāravīthi)の内の一つであり、身門心路(kāyadvāra vīthi)と呼ぶものである。

そして、その後、無数の意門心路(manodāra vīthi)が生起し、かつ同じ所縁を識知・認識する。

これらの心路の内における心は、その心所と共に同時に生起し、それはまた触と受を含むものである。

(3-48につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。

<『涅槃証悟の唯一の道』パオ・セヤドー著 (原題「証悟涅槃的唯一之道」) 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>