<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
疑いもなく、あなたがその近因、すなわち、触所縁の身浄色への衝撃を、観照する事ができるのでなければ、あなたは、身触生受の生起を観照する事は、できない。
これこそが、なぜ身触生受を観照する為には、先に四界分別を修習しなければならないのか、という理由である。
かくの如くに、あなたは ”受随観受において” とは、身随観身(四界分別)(+の修習)も必要であり、心随観心(身識)も必要であり、法随観法(身触とその他の心所)も必要である事を、理解しなければならないのである。
しかしながら、あなたが膝頭において、強すぎる地界、火界または風界を苦受として見ているとしたならば、あなたは ”身随観受において” 修習している事になるのである。
しかし、パーリ聖典の中においては、この様な観照法は存在しない。
というのも、仏陀はこの様な修法を教えないが故に。
なぜであるか?
というのも、これは色法(rūpadhamma)の観照を名法(nāmadhamma)としているが故に。
究極諦によると、この様な事は、不可能である!
これは観照の混同であり、念処(satipaṭṭhāna)でもなければ、《大念処経》の教えでもない。
こうしたことから、仏陀の教えに基づけば、禅の修行者は、身随観身においてだけ(+修習したり)、受随観受においてだけ(+修習したり)、心随観心においてだけ(+修習したり)、または心所における法随観法(+の修習)だけで涅槃を証悟しようとすることは、不可能なのであり、禅の修行者は、すべての四念処、すべての五蘊を観照しなければならない。
すなわちそれは、色法と名法の二者に相当するのである。
(3‐49につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。
<『涅槃証悟の唯一の道』パオ・セヤドー著 (原題「証悟涅槃的唯一之道」)
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>