Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

スポット翻訳【般若の智慧のなかりせば】(M-2)  最終回

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(原文P 225)

禅修行者:

私は、自分が苦しい時、慈心の修習をします。

私は、他人に対して慈心が生じ得ない、という体験をしたことがあります。その時は、己自身に対して慈心を修します。そうすれば、心は更に良善になります。

禅師:

ええ、それが正解です。

あなたはまず、己自身から、始めるのがよいのです。

あなた自身が愉快な時に初めて、他人に慈心を届ける事ができます。

私はよく、慈心の修習をしようとする禅の修行者に、言います:

修習の時、常に自己を覚知するべきであり、あなたが慈心を散布する時、己自身を観察しなければならない、と。

実際にはあなたは、念住を修習しているのですが、まさにその時に散布している所の慈心を、観察するのです。

あなたは、真正に慈心を感受(=感じている)しているのかどうか点検して、その後に、己自身に怒りが湧いていないかどうか観察します。

あなたは、怒っている時には、慈心を散布できない事に、心底、気が付くでしょう。

禅修行者:

正しい境地にある時、真正な慈心が自然に生起することはあるでしょうか?

禅師:

あります。

智慧ありさえすればーー正しい境地とは、結局智慧の事なのです。

これが、私がなぜ、智慧の重要性を強調し続けるか、という理由です。

智慧のある時、どの様な事柄でも、完成させることができます。

我々は、重要な事柄から着手して、底の部分から始めることはありません。

戒・定・慧の三学の内、戒は基礎であり、定はもう少しレベルが高く、慧が最高になります。

あなたは、試してみるといいのですが・・・持戒をするだけで、定の修習をしないとしたらーーあなたには、戒を犯さないということができないでしょう;

もし、あなたに定があるならば、持戒は非常に簡単になります;

あなたに、慧があるならば、定と戒は、自然に随伴してきます。

戒には、二種類あります:

一番目の戒は、我々が努力して修行し、己自身を克己し、節制して、間違いを犯さないようにする戒です;

二番目の戒は、己自身に理解が進んだために、自然に戒を犯さなくなる、というレベルです。

この事は、己自身に節制、克己が必要でないという意味ではありません。

というのも、このレベルになると、根本的に欲望というものがなく、または欲望が微弱で、貪も瞋も淡泊になるからですが、この種の戒は<心所戒>と言います。

真正なる智慧の生起ーーすなわち、人が覚悟・覚醒する時ーー戒は即刻清浄になり、八聖道は了然として(+守るのに何等の)問題もなくなります。

仏陀の時代、ある種の人々は、慧根が異常なほど鋭く、智慧が際立ち、仏陀が一言ポイントを示せば、即刻、証悟したのです。

私の指導は、智慧の重要性を益々強調するものになっています。私自身は、色々な法門の修習にチャレンジした事があり、持戒と定の修習に努力しましたが、これらの一切は、私をば、真正に変えることはできませんでした。

その後、私の心が、ものごとを理解し始めて、智慧が増長した時初めて、私は成長しました。

当然のことながら、智慧の成長は、私の厳重な持戒を、支えてくれる事になりました。

私が在家であった時、修行していた内の項目の一つに、八戒がありました。

それは、あなた方が内心で想像している所の、八戒ではなく、通常の五戒の上に、言語の戒を加えたもので、それはすなわち、嘘を言わないだけでなく、悪口をせず、他人を誹謗したり中傷したりせず、耳触りのよい綺麗事を言わない、というものでした。

私は非常に早くに、念住は、綿密でなければならない事に、気が付きました。

己自身に対して、緊密に覚知して初めて、これらの言語に関する戒をよく持する事ができるーーこれが、私の勇猛な修行の最初の一歩、最初の始まりでした。

その起点は、やはり智慧であり、この種の(+修行の)方法には、智慧と理解が伴っているために、修行が早く進むのです。

智慧が存在している所、一切は正道なのです。

私自身が、智慧は己自身に、非常に大きな変容を齎す事を体験したために、私は誠心誠意、あなた方の智慧もまた、大きく増長してもらいたいと願うものなのです。

私は法話の時に、あまり慈心について、語りません。

しかし、あなた方が、観察の仕方を知ったならば、慈心を見ることができます。

もし、私に真正な忍耐力ーー慈心と同類のものーーがないのならば、私はこれほど多くの時間を、教学の為に献身することはないでしょう。

私は、あなた方一人一人に、慈心を届ける事はできませんが、私の慈心は、広く大きく波及するものであって、実は私は、あなた方一人ひとりに対して、慈心を擁しているものなのです!

(最終回)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。

<《Awareness Alone is not Enough》より改題/抜粋翻訳

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>