<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
身随観身において
こうしたことから、仏陀は《大念処経》の中において、vipassanā の身随観身を教え、教導している。
彼は ”身随観身において”(kāye kāyānupassī)と言い、かつ、身の身と言う意味は、色身(rūpakāya)だけをのみ指すものの、しかしそれは、色身だけ随観すればよいという事を意味しないーー名身(nāmakāya)もまた随観されなければならずーー受随観(vedanānupassanā)、心随観(cittānupassanā)、法随観(dhammanupassanā)の修習を通して、(+vipassanā の修行を)完成させなければならない。
上に述べた様に、禅の修行者は、一種類の随観毎に、その他の随観と、明確にその区別がついておらねばならないが、しかし、一種類ごとの(+修習の)状況においては、禅の修行者が随観を修習する時、五蘊すべてに対して、法随観も修習しなければならないのである。
故に、シャーリープトラ尊者(Sāriputta)は《無礙解道》において、”身”(kāya)とは色身(rūpakāya)と名身(nāmakāya)の二者を意味するのだ、と述べているのである。
(3-65につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。
<『涅槃証悟の唯一の道』パオ・セヤドー著 (原題「証悟涅槃的唯一之道」)
中国語版→日本語 訳出翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>