<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
<注32>
仏陀は、《中部・Vekhanasa Sutta》の中において、以下の様に述べる:
”珈宅那よ。もしあれらの沙門、婆羅門、前際を知らず(ajānantā pubbataṃ)、後際を見ないのに(apassantā aparantaṃ)、己自ら ’我々は生の已に尽きた事を知了知し、梵行は已に立ち、為すべき事をなし終えて、後有は二度とない’ と言う者・・・法に基づいて、これらの者を、非難しても構わない(tesaṃ soyeva sahadhammiko niggaho hoti)。”
<注33>
《殊勝義註・出世間善雑論》(Lokuttarakusalaṃ pakiṇṇakathā)と
《清浄道論・行捨智》
(Saṅkhārupekkhāññāṇaṃ)の中において、以下の様に解説して言う:
ある種の人々は、内在の五蘊に住し始める(idhekacco āditova ajjhattaṃ pañcasu khandhesu abhinivisati)、住した後、それらの無常・苦・無我等の観察を始める。しかし、ただ純粋な内観(suddha ajjhattadassanamateneva)をするだけでは、道が出起することはない為(maggavuṭṭhānaṃ)、外観もまた実践しなければならない(bahiddhāpi daṭṭhabbameva)。
ということは、外観も必要なのであり(bahiddhhāpi daṭṭhabbameva)、
他人の諸蘊(parassa khandhepi)と、
執着したのでない所の諸行(anupādinnasaṅkhārepi)の無常・苦・無我もまた、観察しなければならないという事である。
彼は一時、内において思惟し
(kālena ajjhattaṃ sammasati)、
一時、外において思惟する
(kālena bahiddhāti)。
彼はこの様に思惟するのである。
内を思惟する時、観と道は一つに連結される(vipassanā maggena saddhiṃ ghaṭiyati)。
外の観もまた同様である。
同様に、ある種の人々は、色に住し始めて(rūpa abhinivisati)、住しながら、大種色と所造色を確定した後(bhūtarūpañca upādārūpañca paricchinditvā)、無常・苦・無我などを観照する。
しかし、ただ単に、色を純粋に観ずるだけでは、道の出起はなく、非色もまた観ぜられなければならないのである(arūpampi daṭṭhabbameva)。
この時は、当該の色を所縁とした後(taṃ rūpaṃ ārammaṇaṃ katvā)、生起した所の受・想・行・識等の非色をば、”これは非色である”(idaṃ arūpanti)と確定した後、無常等と観じなければならない。
彼は一時、色において思惟し、一時、非色において思惟する。
どれか一者を思惟している時、道が出起する可能性がある。
彼は以下の様に思惟する:
”すべての集起の法は、一切皆、滅する法である(Yaṃ kiñci samudayadhammaṃ sabbaṃ taṃ nirodhamman'ti)。”
同様に、出起の時、 ”一撃でもって(同時に)五蘊から出起するのである”
(ekappahārena pañcahi khandhehi vuṭṭhāti)。
《清浄道論》はまた、禅修行者は諸行を無常として観照しなければならないだけでなく、苦としても、無我としても観照しなければならない、と言う。
たとえ聖道は、どれか一者を観照している時に、出起するのだとしても。
(3-67につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。
<『涅槃証悟の唯一の道』パオ・セヤドー著 (原題「証悟涅槃的唯一之道」)
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>