<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
今、我々は、受随観に関して、再び重複して解説する必要はないが、しかし、我々は、念処として受を随観する時、六内処と六外処のすべてを観照しなければならない、という事を言わねばならない。
どの様な状況であっても、禅修行者は、四界分別の修習から始めなければならないが、それは、14種類の身随観の中の五番目の修習科目であり、この修習をしないのであれば、受に依存して生起する所の内・外処を、観照する事はできないのである。(注37)
禅修行者が、意処と、その他の所縁を、観照し得たとしても、四観分別は、修習されなければならない。
意処は名法に属するものの、しかし、それが依存する所の心処(hadayavatthu)は、色法に属するのである。
同様に、禅修行者は、受と随伴して、同時に生起する所の心も観照しなければならないが、これは心随観の中の、眼、耳、鼻、舌、身と意識への、随観であると言える。
内処と、それに相応する所の外処と、識の結合を観照して初めて、受の生起する因としての触の生起を、観照する事ができる。
しかし、前に述べた様に、禅修行者は、ただ触と受だけを観照するのであれば不適切であり、六識と同時に生起する所の、その他の心所もまた、同時に観照しなければならない。
そうでないならば、禅修行者は、五蘊のすべてを観照した事にならないし、また一切を観照したことにも、ならないのである。
以下の、仏陀の言葉を覚えてべきである:
”Sabbaṃ、bhikkhave、anabhijānaṃ aparijānaṃ avirājayaṃ appajahaṃ abhabbo dukkhakkhayāya”
”比丘たちよ。
一切に対して、不遍知の者、不離棄の者、不捨断の者はすなわち、苦を滅尽することはできない。”
(3-75につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。
<『涅槃証悟の唯一の道』パオ・セヤドー著 (原題「証悟涅槃的唯一之道」)
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>