<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
仏陀の教えに基づけば、四種類の随観すべては、五取蘊を遍知する為の、唯一の道であり、それはまた、五取蘊の生起の因を断じ除く唯一の道でもあり、また五取蘊の滅尽を証悟する為の唯一の道であり、五取蘊の滅尽に導き至る修習の唯一の道であり、それはまたすなわち、止と観でもあるのである。
また《大念処経》の義註によれば、この四種類の随観はまた、”前分念処の道”(pubbabhāgasatipaṭṭhānamaggo)と呼ばれるが、それはすなわち出世間八支聖道の生起する前行なのである。
それは一体、何を意味しているのであろうか?
その意味は、四念処の修習(止と観の修習)とはすなわち、八支聖道を育成する為の八項目の要素の事を指しているのである。
止(=サマタ)の修習の時、この八項目のは、止の修習における業処を目標に取る・・・例えば入出息等。
これは世間的な止(=サマタ)である。
止の修習が、近行定またはジャーナに到達した後、修行者は、当該の定力を通して、観(=vipassanā)の修習をすることができる。
観の修習の時、八支聖道のこの八つの項目は、vipassanā 業処の目標となる:
第一の段階では、それは五取蘊及びそれらの因、すなわち、色法または名法(+を目標とするの)である。
第二の段階と第三の段階では、それは色法または名法の無常相、苦相または無我相である。
上と同じく、これは世間的 vipassanā である。
もし、禅修行者の観智が成熟する時、すなわち、出世間八支聖道(出世間の止と観)が生起し、かつ涅槃が(+心の)目標となることとなる。
故に、四念処は出世間八支聖道が生起する所の、唯一の道である、と言うのである。
次に、我々は義註ーー《清浄道論》(Visuddhi magga)とその複註である所の《大複註》(Mahāṭīkā)と、三蔵の中のその他の経典に基づいて、先に止、後に観という順序に従って《大念処経・入出息念の部分》の意味と、実修の順序と、その方法に関して、簡単に検証してみたいと思う。
(6-1につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。
<『涅槃証悟の唯一の道』パオ・セヤドー著(原題「証悟涅槃的唯一之道」)
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>