Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(6-12)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

有分に落ちる

前に述べた様に、名法の生起は一連の心路を形成し、かつ、異なった類型の心によって構成される。

それらは目で見る事によって、目標を識知する所の心路であり、耳で聞く事によって、目標を識知する所の心路・・・心を通して目標と識知する所の心路である。

それらはすべての時間において、六根を通して識知するのである。

しかし、これらの心路の間には、無数の有分心(bhavaṅga)が生起する。

今は有分心の説明をする時ではないのではあるが、それがひとたび生起すれば、現時点の如何なる所縁をも識知することができない。

ただ禅修行者が縁起の修行に至ったとき、彼は有分心の所縁を知る事ができる。

禅修行者が定力を育成する時、”有分に落ちる” 可能性がある。専注する心は、如何なる色彩、音などの所縁に注意を払ってはいないが、しかし、それは禅修の所縁から離れてします。その時、生起するのはただ有分心のみであり、”能所双泯”と言われる体験をするか、または、これを涅槃を証悟したのだと思う事がある。

しかし、涅槃は一無所知(=全く何も知らない事)ではなく、涅槃を証悟するという事は、涅槃を覚知しているのである。

この種の状況が生まれる場合、それは ”有分に落ちた” のである。

有分に落ちるという事が発生するのは、禅修行者が禅修の業処への定力が、いまだ深さも厚さも、強固さも、足りないが故である。

(6-13につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。

<『涅槃証悟の唯一の道』パオ・セヤドー著(原題「証悟涅槃的唯一之道」) 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>