<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(1)煩悩輪転(kilesavaṭṭa):
ここにおいて、それは、比丘、比丘尼(尼僧)、男性、女性、天人または梵天人になりたいと言う不善貪根速行心を擁する意門心路である(+と言える)。
この一連の意門心路に沿って、行きつ戻りつしながら、それらが見つかるまで、識別を続ける。
もし、その中に喜があるとすると、それらには20個の名法がある;
もし、喜がないならば、19個になる。
無明、愛、取などの諸々の煩悩は、これらの名法の中に含まれる。
(2)業転輪(kammavaṭṭa):
ここにおいて、それは仏塔、または仏像(+への)布施の善速行心を擁する意門心路である。
それらは 34 または 33 個の名法である。それは、それらが喜が含まれるか、または無喜、含まれないかで決まる。
比丘になりたいという事が、なぜ不善なのであるか?
以前、我々が vipassanā について論談した時、勝義諦によれば、いわゆる男性、女性、天人、梵天人はおらず、それらはただ名と色に過ぎないのだ、と解説した。
比丘になりたい、という思いが生じるのは、無明、愛、取という、この三種類の煩悩が原因である:
1、無明とは、”比丘”という、真実の存在があるという錯覚。
2、愛とは貪欲的な求めと、比丘としての生活を、渇愛する事。
3、取は、比丘としての生活に、執着する事。
無明、愛、取という、この三支に相応する心は、すなわち、煩悩輪転(kilesavaṭṭa)を構成する。
もし、あなたが女性になりたいのであれば、すなわち:
1、無明とは、”女性”という、真実の存在があるという錯覚。
2、愛とは貪欲的な求めと、女性としての生活を、渇愛する事。
3、取は、女性としての生活に、執着する事。
また、梵天人になりたいのであれば、すなわち:
1、無明とは、”梵天人”という真実の存在があるという錯覚。
2、愛とは貪欲的な求めと、梵天人としての生活を、渇愛する事。
3、取は、梵天人としての生活に、執着する事。
(9-8につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。
<『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(原題「証悟涅槃的唯一之道」)
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>