<無我と非我について>
昨日、『涅槃証悟の唯一の道』の翻訳が終わりました。
翻訳しながら、<この文章、この表現は重要だな>と思った翻訳文に関しては、《重要必読》と入れておきました(独断と偏見による)。
昨日翻訳した<No.12-2>も《重要必読》だと思います。
(A)これは私のものではない、
(B)これは私ではない、
(C)これは私の私(=霊魂?)ではない、
と述べています。
日本の方で、パーリ語の 「na meso attā」 が、日本語に翻訳されて「無我」と表現されているのを見て、<私はいないのだ>と理解する方がまま見受けられます(その為に、無我/非我論争が起きています)。
涅槃を体験した聖者は、本当に私はいない、と実感しているのかも知れませんが(注1)、世俗世間に生きる我々は、とりあえず仏陀の(A)(B)(C)に従って物事を考えた方が、現実に立脚して、問題を解決できると思います。
長い間、中国語の仏教書を翻訳して来ましたが、中国語で<無我>と書かれてあっても、それは、上記(A)(B)(C)の意味で用いられており、<私はいない>という日本語に翻訳可能な文章に、出会ったことがありません。
私は、ヤージュナーバルキヤ、故中村元博士の主張した
<非我>説に賛同します。
(注1)涅槃体験者は、言葉では「涅槃してみたら私はいなかった」という表現をするかもしれませんが、涅槃とは<常、楽、無我、浄>です。常で楽で清らか、というのですから、私はいない、とは矛盾します。
<無我>を私はいないのだ、という風に理解すると、虚無に陥り、涅槃とは、矛盾する訳です。インドで仏教が廃れた原因の一つに、<無我>を私はいないと理解して、虚無主義に陥ったからだ、との説有り。誰が輪廻するのか?という設問も同根ですね。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>