Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

般若の独り言~rūpakalāpaを見るまでは(3)

<無我と非我について>

昨日、『涅槃証悟の唯一の道』の翻訳が終わりました。

翻訳しながら、<この文章、この表現は重要だな>と思った翻訳文に関しては、《重要必読》と入れておきました(独断と偏見による)。

昨日翻訳した<No.12-2>も《重要必読》だと思います。

仏陀「無我」について、

(A)これは私のものではない、

(B)これは私ではない、

(C)これは私の私(=霊魂?)ではない、

と述べています。

日本の方で、パーリ語の 「na meso attā」 が、日本語に翻訳されて「無我」と表現されているのを見て、<私はいないのだ>と理解する方がまま見受けられます(その為に、無我/非我論争が起きています)。

涅槃を体験した聖者は、本当に私はいない、と実感しているのかも知れませんが(注1)、世俗世間に生きる我々は、とりあえず仏陀の(A)(B)(C)に従って物事を考えた方が、現実に立脚して、問題を解決できると思います。

長い間、中国語の仏教書を翻訳して来ましたが、中国語で<無我>と書かれてあっても、それは、上記(A)(B)(C)の意味で用いられており、<私はいない>という日本語に翻訳可能な文章に、出会ったことがありません。

私は、ヤージュナーバルキヤ、故中村元博士の主張した

<非我>説に賛同します

(注1)涅槃体験者は、言葉では「涅槃してみたら私はいなかった」という表現をするかもしれませんが、涅槃とは<常、楽、無我、浄>です。常で楽で清らか、というのですから、私はいない、とは矛盾します。

<無我>を私はいないのだ、という風に理解すると、虚無に陥り、涅槃とは、矛盾する訳です。インドで仏教が廃れた原因の一つに、<無我>を私はいないと理解して、虚無主義に陥ったからだ、との説有り。誰が輪廻するのか?という設問も同根ですね。

  <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>