Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

般若の独り言~rūpakalāpaを見るまでは(4)

何週間か前の当該のブログで、40年前、タイの森林僧院で「サマタ・vipassanā」という言葉を聞いた時、「私のチャレンジしたい修行法はこれ!」と閃いた話を、書きました。

では、サマタ(止)& vipassanā(観)とは何でしょうか?

まず、vipassanā  から。

もう随分昔、テーラワーダの某僧侶から「vipassanā とは、対象を細かく分けてみる事」という定義を教わりました。あまり納得できませんでした。

最近、ミャンマーの某僧侶がこう言われました

「誰も観たことのないものを見る事」

納得です。

rūpakalāpa とは、現代物理学でいえば、素粒子またはクォークの事です。

瞑想で、己自身の身体、他者の身体、その他外部にある物質が rūpakalāpa で出来ている事を知り、それが刹那に生滅していること、すなわち、rūpakalāpa の無常・苦・無我の性質を観ずる事。

これが vipassanā です。

本当に、誰も見たことのない風景ですよね。

みなさまの中で、己自身の直接知覚によって、rūpakalāpa を見た人はいるでしょうか?(パオ・メソッドを、熱心に、順調に、修行されている方なら、すでに見ているかと思いますが)。

ゴータマ仏陀菩提樹の下で、誰も観た事のない風景を見て、正等正覚(究極の悟り)を得ました。

それは素粒子の刹那生・滅であり(12縁起を含む)、あまりに微細すぎて、他者に説明するのが憚られたほどでありました。

故に、悟りを得た最初の頃、仏陀は、人に弘法しないで、このまま死のうと考えていたくらいです。

なお、サマタとは、概念を超えた所の、如実な現象(=究極法)、すなわち rūpakalāpa の生・滅以前の、概念的な対象を見る事をいいます。

例えば32身分で、身体内部の胃や腸をみているとして、それはいまだ概念を超えていないので、サマタ瞑想である、と言います。

一つの所縁・対象を、一心に、(一境性によって)じっと見ているのがサマタである、と誤解される事が多いですが、実は、サマタとは、所縁・対象を、概念のレベルでみている瞑想体験の事を言います。

四禅であっても、rūpakalāpa の無常・苦・無我を観じているのでなければ、サマタになりますし、四界分別観の近行定レベルでも、rūpakalāpa の生・滅、無常・苦・無我を見ているのであれば、vipassanā になります。

なお、一旦禅定(初禅~四禅)に入り、そこから出て、素の意識レベルには戻らないように気を付けながら、サマーディを維持したまま、rūpakalāpa の刹那生滅、無常・苦・無我を見る、追跡するのを刹那定における vipassanā (刹那定=カニカ・サマーディ)と言います。

  <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>