Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 コメント欄はどなたも利用OKですが、リトリートに入っている時は回答致しません。

般若の独り言~タイと緬甸のお葬式

今年一年を振り返ってみますと、私の知人の、その親戚という方が、何名か亡くなられました。

私は一一の葬式に参加しておりませんので、その詳細な様子は分かりませんが・・・。

私はタイと緬甸で一度づつ、葬式に出くわしたことがあります。

タイでは、私が師事していた K比丘尊者の女性の信者さんで、癌を患っていた方が亡くなって、K比丘が彼女の為に

読経するため、葬儀場へ出向いた際、同行させて頂いたものです。

後で伺いますと、K比丘の上げたお経は「死んで良かった。これで五蘊に悩まされなくて済む」という意味を含んだものだそうで、残された遺族も全員「よかったよかった」とニコニコしていて(小さな女の子たちは、赤や黄色のドレスを着ている)、日本の葬式とまったく異なる雰囲気に、大変に驚いたものです。

もう一度は、緬甸のモーラミャイン、パオ本山でのお葬式、というより、火葬式ですね。

ある日の事、パオ本山所属の比丘が亡くなられた為、パオ・セヤドーから、昼食を済ませた後、午後、院内に設置されてある台所の傍の空き地に集まる様にとお触れがでました。

時間に空き地に行ってみると、比丘の遺体が運ばれてきて、事前に井桁に積み上げてあった木材の上に載せられて、ガソリンをかけて着火、遺体が燃えている間に、パオ・セヤドーが読経されて、葬式はそれで終わり。

遺骨は、空き地の側に掘ってあった溝に放り込んで、すべて完了。火葬参加者は三々五々、自分のクッティに戻って、それでおしまい(インドで、ガンジス河のガトーで遺体を焼いた後、遺骨を河に投げ入れてしまうのとほぼ同じ)

あまりのあっけなさに吃驚しましたけれど、テーラワーダで、vipassanaができる人間は、日々、時々刻々、五蘊は生・滅しているのを知っているので(毎日何千回も死んでいる~注1、注2)、いまさら改めて、<死ぬ>何てことは、こともないのでしょう。

私も、緬甸の森林僧院で死んで、簡単な火葬(井桁葬?)だけやって頂ければ本望である、と思っていますが、それが出来なければ、日本で献体(申し込み済み。大学医学部による合同葬、遺骨は慰霊碑へ)、献体が不可能な時は、(二人の息子の内の誰か一人に)直葬してもらい、その後、散骨にてお終い・・・できれいさっぱり、お終いにしてもらいたいものです。

死亡心、結生心と続く一刹那の死と再生の後、引き続き仏法の修行のできる天界に生まれ変われれば、それでラッキー・・・他に何も望むものはありません(パオ・セヤドー曰く「何かに生まれ変わろうなどと思うは邪見。涅槃せよ」う~~ん、無理)

注1:アビダンマを学び、修行する者は、五蘊が刹那生滅していることを知っており、故に、時々刻々、生まれては死に、死んでは生まれている事、死という現象はあるものの、死ぬ人はいない、という事を知っているので、死後、思い患うことは何もない。

注2:本日27日、読者の方より、ご注意を受けました(コメント欄参照の事)。名色の内、名の生・滅は一秒間に

<250兆回>だそうです。我々が己自身を「ある、ある」と思ってしまうのも、ムベなるかな、ですね(なお、名の生・滅は、色の生・滅より17倍速い)。

 <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>