<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
《安般念
(=出入息念、アーナパーナサティ)》
ここにおいて、第一番目の方法、すなわち、安般念を入門とする、禅修の方法を、解説する。
仏陀は《大念処経》(Mahāsatipaṭṭhāna Sutta)の中において、如何にして安般念を修習するのか、ということについて、以下の様に言う:
「比丘たちよ。
ここにおいて、比丘は森に行き、木の下に行き、空き地に行って、結跏趺坐し、その身を正しく真っ直ぐにし、業処において、正念に安住する。
彼は正念において入息し、正念において出息する。また、
入息が長い時:『私の入息は長い』と知り、
また、出息が長い者は:『私の出息は長い』と知る。
入息が短い時:『私の入息は短い』と知り、
また、出息が短い者は:『私の出息は短い』と知る。
『私は全身を覚知して入息する』と修習し、
『私は全身を覚知して出息する』と修習する。
『私は身行(注3)を止めて入息する』と修習し、
『私は身行を止めて出息する』と修習する(注4)。
禅修を始める時、先にリラックして座る。
その後に、鼻の下方または鼻孔の周囲の、どこかの部位において、息の出入りを覚知する。
(+覚知が)息とともに、体内に入ったり、(+遠く)体外に出て行ってはならない。
というのも、この様にすれば、あなたは定を、完成する事ができないが故に。
あなたは、ただ息を、上唇の上方または鼻孔の周囲において、覚知するだけでよい。
この様にすれば、あなたは定を育成し、定を成就する事ができる。
(注3)《智慧の光》では:身行(kāya-saṅkhāra)とは、「入出息」(assāsa-passāsa)であるという。なぜ入出息を身行というのであるか?
これは、入出息が「所生身」(karajakāya、すなわち身体)に依存して生じるからである。もし、身体がないならば、入出息もまた、存在することができない。また、それは名身(nāma kāya)に依存して生じるが故に、身の行法である、という。。。
なお、上記<全身>は全息の事である(訳者)
(注4)『漢訳南伝大蔵經』「長部経典」二。
(3-4につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。
<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版
中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>