Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

仏教徒は何を信じるか~釈果道追善供養翻訳(D-1)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

《究極の真理》

(P 76)

究極の真理は、仏陀の教えの中に、見出す事ができる。

仏教は、二種類の真理が存在している事を認めるーー普遍的な真理と、究極的な真理である。

究極的な真理は、理論的または推測によるものではなく、唯一、禅定の訓練を経て後に、初めて獲得されるものである。

仏陀の教えは、この世間における、究極的な真理である。

仏教は、一種の天啓でもなければ、組織的な宗教でもない。

それは人類が初めて、純粋な科学(+的手法)によって探求された、究極的な存在に関する本質的な(+洞察の)実例である。

この種の、時空を超えた教義は、仏陀が、どの様な外部的な要素をも交えずに、発見したものである。

この教義は強くて力があり、どの様な挑戦を受けても、各種各様の(+時代の)変遷に適応する為に、その基本的な原則を、曲げることはない。

すべての宗教は、現代社会に適応する為に、変化を強いられるか、または、元々擁していた教義を放棄する。

しかし、現代の、困難が普遍的に存在するこの世界において、仏教は今まで通り、仏陀の原始の教義を保ち続けることが出来ている。

仏陀は、かつて道徳または、宗教と関係のない個人または、世間的な修行方式を紹介した事は、一度もない。

仏陀からみて、これらの修行方式は、全く価値がないものである。

我々は、仏陀の語る仏法と、一般の人々が語る仏法、及び仏陀の名を利用した修行方法とは何であるかを、(+それぞれ)検討してみる必要がある。

今日、仏教は形式的には、すでに最初の仏教とは全くの別物になってしまっている。

それは数世紀を経て伝播されていき、緬甸(ミャンマー)、タイ、中国、チベットスリランカと日本の仏教は、今や、完全に別々のものになっている。

しかし、この事によって混乱が起こっている訳ではない。

というのも、仏陀の教えは究極的真理であり、この究極的真理の体現は、異なる生活様式によっても、顕示され得るからである。

(D-2につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay