Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

本雅難陀禅師アメリカ法話第一集-26

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

▲女性として結生するには、いくつかの条件が必要である:

貪心が大きく、慢心が重く、嫉妬心も重い。

(+リトリートに参加している)貴女方は含みません。女方は、布施し、持戒し、禅の修行もしている為、これらに含まない;

私は、外部の女性について言っている。

隣の家が、新しい車を買った言えば、嫉妬の余り眠れない。

隣の子供が、試験で一番になって、自分の子供が平凡な時、お母さんは失望する。

元々、己自身と関係がない事柄を、自分のもとに引き寄せて、苦しむ。

「求めて得られない苦」もある。

欲しいものがあるのに、手に入らないのは、苦である。

例えば、老人は健康な身体が欲しいと思うが、無理な相談であり、苦である。

己の家族が平安であれ、と願うものの、実現しなければ、苦である。

男性はこの点については、鈍感であり、女性の方が、鋭い。

自分の子供が、他人の子供より優れている事を望むし、会社に勤めれば、他人より高収入でありいたい;

息子は、夫よりイケメンであって欲しいし、夫は、お金持ちで、恰好がよく、大人しいのがよい。

しかし、因と縁はその様には上手くいかないものだ。自分の夫は、金持ちではないし、恰好もよくないし、言う事を聞いてくれない。

・・・これらの苦は、みな、概念的な苦である。

最も究極的な苦、それは五取蘊である。

仏陀はなぜ、『二種類の苦』を紹介したのか?

というのも、先に概念的な苦を理解して後初めて、究極的な苦に進む事ができるからである。

前に述べた通り:

生老病死、愛別離、怨憎会、求不得、これらは概念的な苦である。

これから、究極の苦を紹介する・・・五取蘊:

色受想行識である。

なぜ、五取蘊を知る必要があるのか?

というのも、四聖諦を通してのみ、見道し、果を証することができるからである。

もし、四聖諦を通さないのであれば、見道し、果を証することができない。

先に、世間的な苦聖諦と、世間的な集聖諦を知って後に初めて、出世間的苦聖諦と、出世間的集聖諦に、進む事ができる。

(27につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。<翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>