<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
上の事から、一人ひとりは、観禅 vipassana を修しなければならない音が分かる。
しかし、定力がない者は、それを修することができない。
というのも、《定經》において、仏陀は以下の様に述べている:
「定力があって初めて慧があり、定力が無ければ慧もない」
故に、純観行者であっても、近行定の定力があって、初めて観禅に進む事ができる。止観行者は、四禅八定を得て後、色法・名法(+の修習)に進む。
純観行者と止観行者が煩悩を断ずる部分に関して、それぞれに何等の差もない。
純観行者と止観行者が、ソータパナ、サターガミ、アナーガミ、阿羅漢を証得する道心心路過程や、断ずる煩悩は、皆同じである。
仏陀が断じた煩悩は、パーチェカ・・ブッダ、阿羅漢が断じた所の煩悩と、まったく同様である。
阿羅漢の意味は:一切の煩悩を断ずる事。
三種類の阿羅漢がある:
正等正覚の仏陀は阿羅漢であり、パーチェカ・ブッダもまた阿羅漢と呼ばれる。その上に、普通弟子尊者もまた阿羅漢である。
三種類の阿羅漢の区別はただ:四道心とそれに相応する智慧の広さ、深さと利益が異なるだけである。
(48につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。<翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>