Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

本雅難陀禅師アメリカ法話第一集-60(75/82)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

▲安般禅相と光の関係

1、ある時には、この光は(+あなたの)後ろに、何分か、出現し、その後に消失する。

あなたは期待して、光が早く現れないかと待つ様になれば、心はイライラする。

2、ある時、禅相は、横から出現して、前に止まる。この時、もしあまりに喜ぶと、呼吸を知る事を忘れてしまい、安般の所縁である「呼吸」(息)を放棄してしまう。

光が出現する原因は、心が呼吸を主な目標として、定力が徐々に上昇する為である。

故に、この光は安般の所縁ではない、それを見てはならない。というのも、心は呼吸を(+見るのを)忘れれば、定力は後退し、同時に、光も消えて、見えなくなるからである。

この時、焦って光を出現させ様とすると、修行者は、緊張して苦しくなる。

3、ある時には、呼吸を思い出して、呼吸を知る事に戻ってくる。すると、光が下から(+あなたを)照らして、とても光り輝く。そうすると、非常に嬉しい。しかし、この禅相は、先ほどのとは異なっている事に気が付き、心は謎を解くために考え始める。その結果、呼吸を知る事を忘れ、ただこの光に執着してしまう。

継続して呼吸を知る努力をしていないが故に、光は一時非常に光、一時暗くなってしまい、次には消失してしまう。

そうすると、非常に不満で、力んで呼吸を知ろうとし、すぐに疲れてしまう。

これは、心が禅相をコントロール(制御)し様とするからであって、そうすると、心は緊張する;

緊張すればするほど、修行者は力むために、益々緊張してリラックスできない;心はリラックスできないと、不安定になるので、禅相は益々出て来ない、という事になる。

故に、光が出現した時、己自身に注意する:私は光に注目しない、私は呼吸を知る事に専念する。

ある時、口では以下の様にいう:私は光に注目しない。しかし、心はどうしても光(+の事を想ってしまう)。

そうした事かあら、光が出現すると、嬉しくて、光に注目して、また、呼吸を知る事を忘れる。

故に、常に己自身の注意する:呼吸を知る事が、安般の目標である、と。

4、ある時は、光は遠くからあなたを照らす。目が非常に痛い。この時、それを相手にしない。というのも、この光は禅相ではないが故に。

(61につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。<翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>