<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
《行と業有》
(saṅkhāra & kamma bhava)
1、布施する前(布施業を造(ナ、以下同様)す前)に生起した所の前思(pubba cetanā)は、行である。
施物を受者の手の中に布施した時に生起するのは、立思(patitthapaka cetanā、または脱思:munñca cetanā)である。
2、または、業を造す時に生起する所の、意門心路過程速行心の中において、前の六個の速行心の思(cetanā)は遂行(āyūhana saṅkhāra)である。
第七番目の速行心の思は業有である。
3、または、業を造す時に生起する速行心の思は業有である。その思と相応する心識及び心所は、遂行である。
こうしたことから、今世において、累積した所の無明、愛、行および業は、今世の五蘊の因(集諦)ではなく、未来世の五蘊(苦諦)の因(集諦)となる事が、知れるのである。
この五因の中において、もし、人が、業について、慎重に考慮するならば、彼は以下の事に非常に満足して同意するであろう。
過去世の集諦が原因で、苦諦が、今世において生起する、と。
もし、人が、今世において生起する苦諦(五蘊の結生など)は、過去世の中において造した所の業(集諦)が縁である事に、同意しないのであれば、彼は、更に一歩進んで、以下の様に考慮しなければならないであろう。
正等正覚菩提(sammāsambodhi)を成就する為に、四阿僧祇劫と十万大劫の長きに亘って、波羅蜜の修行しなければならないのではないか:
または、上首(=主席)弟子菩提(aggasāvakabodhi)を成就する為に、二阿僧祇劫と十万大劫の長きに亘って波羅蜜を修行しなければならないのではないか:
または、大弟子菩提(mahāsāvakabodhi)を成就する為に、十万大劫に亘って、波羅蜜を修行しなければならないのではないか、と。
(9-10につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版 中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>