Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 コメント欄はどなたも利用OKですが、リトリートに入っている時は回答致しません。

般若の独り言~田舎のご馳走

先週たまたま、風邪を引いて寝込む直前に、<蕗の佃煮>を作っておきました(我が精舎の裏の空き地が一面、蕗の自生地で、蕗、採り放題)。

熱にうなされながらでも、何度か火入れをしたので、今日まで傷まずに、まだ食べられそうです。

それでちょっと閃いて、庭に出て、大きく伸びた山椒の枝を切ってきて(剪定して)、枝に沢山ついている実を毟って、醤油に漬けました。

この<蕗の佃煮>に、<山椒の実の佃煮>を合わせると・・・まぁ、美味しいこと、ご飯が進みます。

仏教では、「何を食べてもおしいというな」という教えがあります。

これを、必要以上の禁欲主義だと批判する人がいます。

私も、美味しい物を食べても、やせ我慢して「・・・」(美味しいとも、美味しくない、とも言わない)のが悟り・・・って、ちょっと変だと思っていたのですが。

今年の 2月に、台湾で Ven. U Puññānanda 尊者の指導するリトリートに参加して、ああ、そういう事なんだ、と納得。

日々、近行定や安止定に努力していると、ある日初禅が成立します。

そうすると、座禅・瞑想している時、最早 nimitta

(禅相、鼻の前の光)は消えません。

托鉢に行く時も、この nimitta が消えない様に、そろりそろりと托鉢します。

お寺に戻って、布施して頂いた食物を頂くときも、nimitta が消えない様に、そろりそろりと食事します。

そうすると「美味しい」とか「美味しくない」とかの思考をする心、暇など、ふっとんでしまいます。

「美味しいと思ってはいけない」のではなくて、「絶え間なく nimitta を確保しつづける修習」に専念すれば、食事をしても、美味しいのかどうか、味自体が分からない・・・という状況になる、という事なのです(その基本原理は、一刹那・一心・一所縁だからです)。

『怒ってはいけない』もそうですが、一つ間違えば、偽善になる様な修行を、ゴータマ仏陀が、深い根拠無く、勧めるはずがないと、私は、山椒の実を噛みしめながら、思うのでした(笑)。

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>