先週たまたま、風邪を引いて寝込む直前に、<蕗の佃煮>を作っておきました(我が精舎の裏の空き地が一面、蕗の自生地で、蕗、採り放題)。
熱にうなされながらでも、何度か火入れをしたので、今日まで傷まずに、まだ食べられそうです。
それでちょっと閃いて、庭に出て、大きく伸びた山椒の枝を切ってきて(剪定して)、枝に沢山ついている実を毟って、醤油に漬けました。
この<蕗の佃煮>に、<山椒の実の佃煮>を合わせると・・・まぁ、美味しいこと、ご飯が進みます。
仏教では、「何を食べてもおしいというな」という教えがあります。
これを、必要以上の禁欲主義だと批判する人がいます。
私も、美味しい物を食べても、やせ我慢して「・・・」(美味しいとも、美味しくない、とも言わない)のが悟り・・・って、ちょっと変だと思っていたのですが。
今年の 2月に、台湾で Ven. U Puññānanda 尊者の指導するリトリートに参加して、ああ、そういう事なんだ、と納得。
日々、近行定や安止定に努力していると、ある日初禅が成立します。
そうすると、座禅・瞑想している時、最早 nimitta
(禅相、鼻の前の光)は消えません。
托鉢に行く時も、この nimitta が消えない様に、そろりそろりと托鉢します。
お寺に戻って、布施して頂いた食物を頂くときも、nimitta が消えない様に、そろりそろりと食事します。
そうすると「美味しい」とか「美味しくない」とかの思考をする心、暇など、ふっとんでしまいます。
「美味しいと思ってはいけない」のではなくて、「絶え間なく nimitta を確保しつづける修習」に専念すれば、食事をしても、美味しいのかどうか、味自体が分からない・・・という状況になる、という事なのです(その基本原理は、一刹那・一心・一所縁だからです)。
『怒ってはいけない』もそうですが、一つ間違えば、偽善になる様な修行を、ゴータマ仏陀が、深い根拠無く、勧めるはずがないと、私は、山椒の実を噛みしめながら、思うのでした(笑)。