Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

翻訳『禅修指南』10-10(265/520)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

(B)この二者の中において、生有とは何か?

以下の9種類の生命は生有である。

ⅰ、kāmabhava=欲有。11欲界の中の生命。

ⅱ、rūpabhava=色有。16色界の中の生命。

ⅲ、arūpabhava=無色有。四無色界の生命。

ⅳ、saññābhava=想有。想を有する生命[欲界は11個、色界は15個(無想天を除く)無色界は3個(非想非非想処を除く)、合計29界]:

ⅴ、asaññābhava=無想有。無想の生命。

ⅵ、nevasaññānāsaññābhava=非想非非想有(生命)。

ⅶ、ekavokārabhava=一蘊有。ただ一つの蘊を擁している生命(すなわち、無想天)。

ⅷ、catuvokārabhava:四蘊有。ただ四蘊のみ擁している生命(すなわち、四無色界)

ⅸ、pañcavokārabhava=五蘊有。五蘊を擁している生命(欲界は11個、色界は15個(無想天を除く)、合計26個)

これらの業有と生有は、取によって引き起こされた所の有である。

(11)Tattha katamā bhavapaccayā jāti?

Yā tesaṁ sattānaṁ tamhi tamhi sattanikāye

jāti sañjāti okkanti abhinibbatti khandhānaṁ

pātubhāvo āyatanānaṁ paṭilābho.

Ayaṁ vuccati bhavapaccayā jāti. 

上に述べたパーリ経典の文中、有によって引き起こされた生(=生有)は、何であるか?

諸々の有情の中において、出生、生起、母胎の進入があり、新しい生命になり、蘊が生起し、種々の有情の処(āyatana)を獲得する。

これらは、有によって引き起こされた生である。

(12)Tattha katamaṁ  jātipaccayā jarāmaraṇaṁ?

Atthi jarā atthi maraṇaṁ.

Tattha katamā jarā?

Yā tesaṁ tesaṁ sattānaṁ tamhi

tamhi sattanikāye harā jīraṇatā khaṇḍiccaṁ

pāliccaṁ valittacatā āyuno saṁhāni indriyānaṁ

paripāko. Ayaṁ vuccati jarā.

上に述べたパーリ経典の文中、生によって引き起こされる老死とは何であるか? 

この二者の中において、老とは何か?

諸々の有情の中において、年老いる、老衰、歯の脱落、白髪、皺、生命の敗廃及び種々の有情の諸々の根の老化がある。

これらは老いである。 

(13)Tattha katamaṁ maraṇaṁ?

Yā tesaṁ tesaṁ sattānaṁ tamhā tamhā sattanikāyā 

cuti cavanatā bhedo antaradhānaṁ maccumaranaṁ

kālakiriyā khandhānaṁ bhedo kaḷevarassa 

nikkhepo jīvitindriyassupacchedo.

Idaṁ vuccati maraṇaṁ.

Iti ayañca jarā idañca maraṇaṁ.

Idaṁ vuccati jātipaccayā  jarāmaraṇaṁ. 

老死の中において、死とは何か?

諸々の有情の中において、生、死亡、分離、逝去があり、死亡の中に死ぬこと、死亡、諸々の蘊の分離、身体の捨棄及び種々の有情の命根の終りがある。

これらは死である。故に、老死は存在しており、これらは生のよって引き起こされた所の老死である。 

(14)Tathha katamo soko?

Ñātibyasanena vā phuṭṭhassa、

bhogabyasanena vā phuṭṭhassa、

rogabyasanena vā phuṭṭhassa、

sīlabyasanena vā phuṭṭhassa、

diṭṭhibyasanena vā phuṭṭhassa、

aññataraññatarena byasanena samannāgatassa、

aññataraññataranena dukkhadhammena phuṭṭhassa、

soko socanā socitattaṁ antosoko

antoparisoko cetaso parijjhāyanā 

domanassaṁ soka-sallaṁ.

Ayaṁ vuccati soko.

上に述べたパーリ経典の文中、愁とは何か?

親戚の喪失、財産の喪失、疾病、犯戒、邪見の保持、何らかの不幸に見舞われた人、苦しんでいる人は、愁があり、愁を発し、内心において愁を発し、心全体が愁であり、心は完全に燃えており、不愉快及び愁の棘に刺されるのである。これらは愁である。     

 (15)Tathha katamo paridevo?

Ñātibyasanena vā phuṭṭhassa、

bhogabyasanena vā phuṭṭhassa、

rogabyasanena vā phuṭṭhassa、

sīlabyasanena vā phuṭṭhassa、

diṭṭhibyasanena vā phuṭṭhassa、

aññataraññatarena byasanena samannāgatassa、

aññataraññatarena dukkhadhammena

phuṭṭhassa、ādevo paridevo ādevanāparidevanā 

ādevitattaṁ paridevitattaṁ vācā palāpo

vippalāpo lālappo lālappanā lālappitattaṁ。

Ayaṁ vuccati paridevo.

上に述べたパーリ経典の文中、悲とは何であるか?

あれら親戚の喪失、財産の喪失、疾病、犯戒、邪見の保持、不幸な人と苦しみの人には、悲泣があり、不断に悲泣し、悲泣の境、不断の悲泣の境があり、悲泣し、不断に悲泣つづけ、悲哀にみちて叫び(たとえば、「ああ、私の息子!ああ、私の娘!」)不断に悲哀にみちて叫び、種々に不断に悲哀にみちて叫び、悲哀の境及び不断に悲哀にみちて叫ぶ境地がある。これがすなわち、悲である。

(16)Tattha katamaṁ dukkhaṁ?

Yaṁ kāyikaṁ asātaṁ、kāhikaṁ dukkhaṁ、

kāyasamphassajaṁ asātaṁ dukkhaṁ vedayitaṁ

kāyasamphassajā asātā  dukkhā vedanā.

Idaṁ vuccati dukkhaṁ.    

上に述べたパーリ経典の文中、苦とは何か?

身体の苦、身触によって体験する痛苦の苦及び身触によって生起する所の苦受。これらは苦である。

(17)Tattha katamaṁ domanassaṁ?

Yaṁ cetasikaṁ asātaṁ cetasikaṁ 

dukkhaṁ cetosamphassajaṁ

asātaṁ dukkhaṁ vedayitaṁ 

cetosamphassajā dukkhā vedanā.

Idaṁ vuccati domanassaṁ.

上に述べたパーリ経典の文中、何が憂であるか?心の苦受がある事、思触(=意触)によって、体験する苦、思触(=意触)によって体験した苦受。これらは憂である。

(18)Tattha katamo upāyāso?

Ñātibyasanena vā phuṭṭhassa、

bhogabyasanena vā phuṭṭhassa、

abyasanena vā phuṭṭhassa、

sīlabyasanena vā phuṭṭhassa、

diṭṭhibyasanena vā phuṭṭhassa、

aññataraññatarena byasanena samannāgatassa、

aññataraññatarena dukkhadhammena

phuṭṭhassa、āyāso  upāyāso

āyāsitattaṁ upāyāsitattaṁ.  

Ayaṁ vuccati upāyāso.

上に述べたパーリ経典の文中、悩とは何か?あれら親戚を失い、財産を失い、疾病があり、犯戒し、邪見を保持し、不幸及び苦のある人は、絶望があり、極度の絶望があり、絶望を感じ、また極度に絶望する。これらは悩である。

(19)Evametassa kevalassa dukkhakkhandhassa

samudayo hotīti.

Evametassa kevalassa dukkhakkhandhassa

saṅgati hoti.

Samāmo hoti.

Samodhānaṁ hoti.

Pātubhāvo hoti.

Tena vuccati evametassa kevalassa

dukhakkhandhassa samudayo hotīti.

(Abhidhamma)

Suttanta Bhājanīyaṁ niṭṭhitaṁ.

故に、これは(全くの楽しみのない)苦蘊の生起である。

言い換えれば、これは(全くの楽しみのない)苦蘊の構造であり、構成と出現の因である。

故にそれを:「一切の苦蘊は斯くの如くに生起する」と言う。(Evametassa kevalassa dukkhakkhandhassa samudayo hoti.)

縁起を系統的に修習したいと思い、随覚智と通達智を体験証悟したいと思う禅修行者は、修習を始める前に、上に述べた縁起(12縁起)のパーリ文とその訳文を覚えておくべきである。

その含意を熟知して初めて、縁起第一法を修習する事。

(10-11につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijyubunko.sakura.ne.jp/index.html

<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版  中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>