Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳『禅修指南』10-20(300/520)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

《触の縁によりて受》(Phassapaccayā vedanā)

(触が生起するが故に、受が生起する)

六種類の触によって、以下の六種類の受が生起する:

1、Cakkhusamphassajā vedanā=眼触生受。

2、Sotasamphaassajā vedanā=耳触生受。

3、Ghānasamphassajā vedanā=鼻触生受。

4、Jivhāsamphassajā vedanā=舌触生受。

5、kāyasamphassajā vedanā=身触生受。

6、Manosamphassajā vedanā=意触生受。。

ここにおいて、禅修行者は、眼触生受と眼触縁受(cakkhusamphassapaccayā vedanā)等々を、理解しなければならない。

 

眼触生受と眼触縁受

経典と註釈によると、一切の(眼識と相応する)眼触は、基因の受とし、五門転向であろうと、眼識、受領、推度、確定、欲界善速行、不善速行、欲界唯作速行または彼所縁(すなわち、善、不善と無記=果報唯作諸心)相応等は、皆、眼触生受と眼触縁受と呼ばれる。耳触生受と耳触縁受等もまた角の如くに類推する事。

Kiriyamanodhātu āvajjanavasena labbhati.(《迷惑氷消》)。

五門転向相応の受は、眼触によって引き起こされたと形容されることがある。

これは、方便説(pariyāya)である事に注意しなければならない。

五門転向相応の受が先に生起して、それが五門転向名法と共に滅した後、眼識相応の眼触がようやく生起する。

果が先に生じ、後に因が生じる。

前生の五門転向の受は、後生(眼識と相応)の眼触の支援を受ける。

これは後生縁であるように見える。

「名色縁六処」の段階において、已に説明したが、因に属する後生縁は名法であり、果に属する縁生法(paccayuppanna dhamma)は色法である。 しかしながら、こきにおける因と果は共に名法であり、故に、後生縁の中に入らないのである。

 どの様であれ、眼浄色を具備し、眼触を生起せしめる条件を擁している人だけに、色所縁を省察する五門転向は生起することができる。

眼浄色がなく、眼触を生起せしめる条件を擁しない人は、色所縁を省察する五門転向は、決して生起する事はない。

これは、眼浄色を持たない人は、眼門心路過程全体が、生起しえないが故である。

こうしたことから、五門転向相応の受は、眼触によって引き起こされたという言い方は方便に過ぎない事が分かる。

耳触等への支援と五門転向相応の受は、皆、斯くの如くに理解する事。

これらの解釈に基づいて、眼触によって引き起こされる受は、眼門心路過程と、引き続きその色所縁を目標とする意門心路過程の中の一切の受である事に注意を払う事。

これらすべての受は皆、眼触生受である。

智でもって、「眼触によって、眼触生受が生起する」を知見した後、再度、逐一、色所縁グループ全体を識別する。

同様の方法に基づいて、「耳触によって、耳触生受が生起する」等々を識別する。

1、眼触が生起するが故に、眼触生受が生起する;

眼触は因、眼触生受は果。

2、耳触が生起するが故に、耳触生受が生起する;

耳触は因、耳触生受は果。

3、鼻触が生起するが故に、鼻触生受が生起する;

鼻触は因、鼻触生受は果。

4、舌触が生起するが故に、舌触生受が生起する;

舌触は因、舌触生受は果。

5、身触が生起するが故に、身触生受が生起する;

身触は因、身触生受は果。

6、意触が生起するが故に、意触生受が生起する;

意触は因、意触生受は果。

《意触》

Manosamphassoti bhavaṅgasahajāto samphasso.

Vedayitani sahāvajjanavedanāya javanavedanā.

Bhavaṅgasampayuttāya pana vattabbameva natthi.

(《相応部註》)

上に述べた註釈に基づくと、意門心路過程の前の有分相応の触は、意触である事になる。

意門心路過程の中において、意門転向、速行(及び彼所縁)相応の受とは、意触生受である。

前生有分意触の縁によりてのみ、後生有分意触生受は生起することができる。

32俱生有分意触によって、俱生意触生受もまた、生起する事に注意を払うこと。

意門心路過程が、六所縁の中のどれか一個を目標として取る事ができるために、全部を識別しなければならない。

次に、有分と意門転向相応の触もまた、意触と呼ばれるが、これらの意触は、速行(と彼所縁)相応の意触生受(+と共に)生起するが故に(《相応部註》)。

これらを智でもって識別できる様にする。

《受の縁によりて愛》(Vedanāpaccayā taṇhā)

(受が生起するが故に、愛が生起する)

六種類の受が引き起す所の六種類の愛は、色愛、声愛、香愛、味愛、触愛と法愛である(《迷惑氷消》)。

一つひとつの愛は、また、三種類に分類する事ができる。すなわち、欲愛(kāmataṇhā)、有愛(bhavataṇhā)、無有愛(vibhavataṇhā)である。

物欲(vatthu kāma)に楽しむ、またすなわち、欲楽(kāmassāda)によって、色所縁に執着する時、色愛は生起する。

この時、それは欲愛と呼ばれる。

それが「色所縁は常である。それは永恒に存在する」という常見に伴って生起するならば、それはすなわち、有愛である。

常見と共に生起する貪欲(rāga)もまた有愛と呼ばれる。

それが、「死亡の時、当該の色所縁は壊滅して終結する」という断見に伴って、生起するならば、それはすなわち、無有愛である。

断見に伴って生起する所の貪欲もまた、無有愛と呼ばれる。

声愛などもまた、斯くの如くに理解する事。(《迷惑氷消》:《清浄道論》第17章)。

Bhavataṇhā:Bhavatīti bhavo.

Bhavoti pavattā diṭṭhi bhavadiṭṭi.

Bhavena sahagatā taṇhā bhavataṇhā.

色所縁、声所縁など、どれか一つを(+目標に)取る時、「私は常である」と思う常見は「有」(bhava)である。

当該の「有」と同時に生起する愛はすなわち、有愛である。

Vibhavataṇhā:Na bhavatīti vibhavo、vibhavoti pavattā 

diṭṭhi vibhavadiṭṭhi、vibhavena sahagatā taṇhā

vibhavataṇhā.

自分の為に、六所縁のどれか一個を(+所縁として)取る時、「私は無常である、死後それは終結する」と思う断見は、すなわち、「無有」である。当該の「無有」と同時に生起する愛はすなわち、無有愛である。

Yasmā vātiādinā na kevalaṁ vipākasukhaベvedanā eva、

tissopi pana vedanā vipākā visesena taṇhāya

upanissaya-paccayo、avisesena itarā cāti dasseti.

(《根本疏鈔》)。

kammaphalābhipatthanāvasena sattā kammānipi

āyūhantīti sātisayaṁ taṇhāya vipākavedanā 

upanissyo、na tatthā itarāti āha vipākā visesena

・・・avisesena itarā cā'ti.

Itarāti avipākāti attho.(《随疏鈔》)。

有情が業を造(ナ)す時、心には、果報への極めて大きな渇求を抱く。

故に、上に述べた疏鈔と復註疏鈔は、以下の様に言う:

五識、受領、推度と彼所縁に相応する果報受のみが、特別(visesa)に、親依止力でもって、貪根心に属する愛を、支援する;

転向、確定と速行に相応する受は、一般的(avisesa)に、親依止力でもって、愛を支援する。

因に属する受と、果に属する愛は、同一の一個の心路過程の中で生起することができるし、また、多くの心路過程を挟む事ができる事に、注意を払う事。

こうしたことから、眼門と(引き続き、その色所縁を目標に取る)意門心路過程の中の一つひとつの心識刹那の受は、因に属する「眼触生受」であり、またすなわち、色愛(rūpataṇhā)の因でもある(+と言える)。

声愛の因に属する耳触等々について、斯くの如くに理解する事。

主に果報受を因としているが故に、因に属する受と、果に属する愛の多くは、同一の一個の心識刹那の中で生起するとは限らない。

多くの場合、一個、または多目の、または多くの心識刹那を挟んでいるのである。

未来輪転論(Anāgata vaṭṭa kathā)

この段階で輪転論に言及する場合、それは、生死輪廻に関してという事になるが故に、禅修行者にとって、来世を獲得する為に発願した結果、造(ナ)した業と関係がある。

故に、(+禅修行者の修習は)「来世を感受して受が生起する、来世を渇愛する愛が生起する」を識別するのを主とする。

この愛は、取と業有を含めて、現在因である。それはすなわち、来世を獲得したいという願いを抱いて造(ナ)す所の、無明、愛、取、行及び業である。故に、禅修行者は、己自身が、来世を獲得せんとして造(ナ)した所の(無明)、愛、取、(行)と業を主に識別する。

識別方法の幾つかの例。

1、眼触生受が生起するが故に、色愛が生起する;

眼触生受は因、色愛は果。

2、耳触生受が生起するが故に、声愛が生起する;

耳触生受は因、声愛は果。

3、鼻触生受が生起するが故に、香愛が生起する;

鼻触生受は因、香愛は果。

4、舌触生受が生起するが故に、味愛が生起する;

舌触生受は因、味愛は果。

5、身触生受が生起するが故に、触愛が生起する;

身触生受は因、触愛は果。

6、意触生受が生起するが故に、法愛が生起する;

意触生受は因、法愛は果。

註:法愛(dhammataṇhā)とは、心、心所、色法(五所縁、すなわち、色彩、声、香、味と触を除く)と各種の概念を言う。

(10-21につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版  中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>