Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳『禅修指南』13-1(385/520)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

第12章 : 道非道智見清浄義釈

Maggāmagga Ñāṇadassana Visuddhi Nīddesa

《思惟智》(Sammasanañāṇa)

この観智は、正確で誤りなく、無随煩悩(upakkilesa)なる、恒古(=古くから変わらずにある)の観道であり、それはすなわち、恒古の正道であり、聖道の前に生起する所の前分道(pubabhāgamagga)である。

十随煩悩(たとえば、光明)は、恒古なる正観の道でもなく、聖道の前に生起する前分道でもない。

あの、如実に了解し、かつ知見する所の、恒古なる正観前分道、及び非道(非恒古正観前分道)の観智は、道非道智見清浄と呼ばれ、すなわち、随煩悩の汚染を受けない清浄の観智であり、「此れは正道であり、あれは正道ではない」と、知見するものである。

(《清浄道論》)。

 《聚思惟または理法観》

道非道智見清浄を成就したいと思う禅修行者は、先に、聚思惟(kalāpa sammasana)と呼ばれる所の理法観(naya vipassanā)を修習しておかねばならない。

聚思惟:全体的に、または一組づつ、順序に従って、過去、現在、未来、内、外等の名色の三相を観照する観法である。

これは古印度の大長老が採用した呼称である。

理法観:仏陀は、完全なる三輪転法の教示(Teparivattadhamma desana)の中において、たとえば、《無我相經》(Anattalakkaṇa Sutta)の中に言う様に(+以下の様に述べている):

Yaṁ kiñci rūpaṁ atītānāgatapaccuppannam・・・。

五取蘊(すなわち、色蘊、受蘊、想蘊、行蘊と識蘊)には、11の形式が存在しており、それはすなわち、過去(atīta)、未来(anāgata)、現在(paccuppanna)、内(ajjhatta)、外(bahiddha)、粗い(olārika)、微細(sukhuma)、劣る(hīna)、優れる(paṇīta)、遠い(dūra)、近い(santika)である。

以下の三個の方法に基づいて、五蘊をグループに分けた後、それらの三相観ずる事によって観の修習とするのを、理法観と言う:

1、それらを五個のグループに分ける(すなわち、五蘊法)。

2、それらを12個のグループに分ける(すなわち、12処法)。

3、それらを18個のグループに分ける(すなわち、18界法)。

理法観は、スリランカの大長老が採用した呼称である。

《観智の目標(所縁)》

1、六処門において、目標と共に生起した六法:

眼門法、耳門法、鼻門法、舌門法、身温法と意門法。

2、五蘊:色蘊、受蘊、想蘊、行蘊と識蘊。

3、六門:眼門、耳門、鼻門、舌門、身門と意門。

4、六所縁(目標):色所縁、声所縁(=音所縁。以下同様)、香所縁、味所縁、触所縁と法所縁。

5、六識:眼識、耳識、鼻識、舌識、身識と意識。

6、六触:眼触、耳触、鼻触、舌触、身触と意触。

7、六受:眼触生受、耳触生受、鼻触生受、舌触生受、身触生受と意触生受。

8、六想:色想、声想、香想、味想、触想と法想。

9、六思:色思、声思、香思、味思、触思と法思。

10、六愛:色愛、声愛、香愛、味愛、触愛と法愛。

11、六尋:色尋、声尋、香尋、味尋、触尋と法尋。

12、六伺:色伺、声伺、香伺、味伺、触伺と法伺。

13、六界:地界、水界、火界、風界、空界と識界。

14、十遍処(10 kasiṇa)。

15、32身分(32 koṭṭhāsa)。

16、12処(12 āyatana)。

17、18界(18 dhātu)。

18、22根(22 indriya)。

19、三界(3 dhātu):すなわち、欲界、色界と無色界。

20、九有(9 bhava):すなわち、欲有、色有、無色有、想有、無想有、非想非非想有、一蘊有(=無想有)、四蘊有(=四無色界)、五蘊有(=11欲界と15色界)。

21、四色界ジャーナ。

22、四無量心:慈、悲、喜、捨。

23、四無色界ジャーナ。

24、12 縁起支。

三種類の、度する(=渡する、以下同様)に値する人、及び、得度する(+資格)を具備する人がいる。

仏陀は種々の方法によって、観禅(たとえば、五蘊法等)を教えたその目的は、この三種類の人間を度するためであった。

もし、人が、五蘊法、または12処法、または18界法によって、観を修するならば、その人は、阿羅漢果を証悟することができる。

もし、人が、どれか一法によって、観を修して、その願(すなわち、阿羅漢果)を実現させる事ができるならば、仏陀は何故に、これほど多くの種類の方法を教えたのか?なぜに一種類だけ教えないのか?その理由は、仏陀のこの教えの目的は、三種類の有情を度する為なのであった。

三種類の度するに値する有情の違いは、以下の如くである:

区別その一:

1、色疑者(rūpa sammūḷhā)、色に対して、愚痴(=無知で愚かな事、以下同様)な者。

2、無色疑者(arūpa sammūḷhā)、名に対して、愚痴な者。

3、二疑者(ubhaya sammūḷhā)、名色の二者に対して、愚痴な者。

区別その二:

1、利根者(tikkhindriyā)。

2、中根者(majjhimindriyā)。

3、鈍根者(mudindriyā)。

区別その三:

1、簡略を好む者(sankhittaruci)。

2、中等を好む者(majjhimaruci)。

3、詳細を好む者(広説を好む者、vitthāraruci)。

仏陀は種々の方法に基づいて教示したが、以下の三種類の有情を度する為であった。 

1、仏陀五蘊法によって、観禅を教えた(たとえば、《無我相經》)が、それは以下の有情を度する為であった:

ⅰ、名法に対して愚痴である無色疑者。

ⅱ、利根者。

ⅲ、簡略を好む者。

2、仏陀は12処法によって、観禅を教えたが、それは以下の有情を度する為であった:

ⅰ、色法に対して愚痴な色疑者。

ⅱ、中根者。

ⅲ、中等を好む者。

3、仏陀は18界法によって、観禅を教えたが、それは以下の有情を度する雨であった:

ⅰ、名法の二者(ママ)に対して愚痴な二疑者。

ⅱ、鈍根者。

ⅲ、詳細を好む者。

また、根に基づいて、観禅を教える法もあった。それは禅修行者が無我相の観照に便利な様にと(+いう教えであった)。唯一、正見智によって、徹底的に、以下の四項を知見する時にのみ、上に述べた種々の観法は、道、果と涅槃の利益を齎すことができる。

1、転起(pavatti):五蘊の生起、すなわち、苦諦。

2、起因(pavatti hetu):苦諦の因。

3、滅(nivatti):苦諦と集諦の滅。

4、滅因(nivatti hetu):苦諦と集諦の滅へ趣く行道。

正見智でもって、己自ら、上に述べた四項を徹底的知見してないならば、道果と涅槃の利益を獲得することはできない。

故に仏陀は、諦法と縁起法によって、観禅を教え、人々がそれらを体験、証悟できる様にしたのである。

注意

究極法(paramattha)は四種類ある。すなわち、心、心所、色と涅槃である。

それら四者の中において、心、心所と色法は、無常究極法であり、苦究極法であり、無我究極法である;涅槃はすなわち、常究極法であり、楽究極法であり、無我究極法である。

常、楽、無我究極法である涅槃(第四番目の究極法)を証悟したいと思う善者は、心、心所と色法(第一、第二、第三の究極法)とそれらの因の三相(すなわち、無常・苦・無我)を、繰り返し重複して観照しなければならない。

この様に修習する時:

1、心と心所を名グループに纏め、色法をもう一つ別のグループに纏める。その後に、もし、禅修行者が名色法の方法で観を修習するならば、彼は道果と涅槃を証悟することができる。

2、色法を一つのグループに纏め、名法を四つのグループ、すなわち、受、想、行、識に纏めた後、五蘊法で観の修習をするならば、彼は道果と涅槃を証悟することができる。

3、名色法を12のグループに纏め、12処法によって、観の修習をするならば、彼は道果と涅槃を証悟することができる。

4、名色法を18のグループに纏め、18界法によって、観の修習をするならば、彼は道果と涅槃を証悟することができる。

5、名色法を22のグループに纏め、根教法によって、観の修習をするならば、彼は道果と涅槃を証悟することができる。

6、名色法を12支に纏め、縁起法によって、観の修習をするならば、彼は道果と涅槃を証悟することができる。

7、名色法を苦諦と集諦の二つのグループに纏め、諦教法によって、観の修習をするならば、彼は道果と涅槃を証悟することができる。

これら、観智の目標(所縁)としての名色、五蘊、12処、18界、22根、12縁起支、苦諦と集諦は皆、心、心所と色法に過ぎない。観法は違えども、しかし、観智の目標である所の、根本究極界は皆、同様である。

故に、観禅を修習したいと思う禅修行者は、先に名色分別智と縁摂受智を証得する必要がある。すなわち:

1、色法と名法の区別。

2、諸々の因の識別。

人は問うかも知れない:

「すでに識別できた名色と因果の内、どの法でもって、観の修習をすればよいのか?」と。

その答えは:「容易なもの、明確なものから始めよ」

である。

《清浄道論》(第20章)では以下の様に言う:

Yepi ca sammasnuopagā、tesu ye yassa pākaṭā 

honti sukhena pariggahaṁ gacchanti、tesu tena 

sammasanaṁ ārabhitabbaṁ.

《大疏鈔》では以下の様に言う:

Ye rūparūpadhammā.Yassā ti yogino.

Tesu tena sammasanaṁ ārabhitabbaṁ

yathāpākaṭaṁ vipassanābhinivesoti

katvā. pacchā pana anupaṭṭhahantepi

upāṭṭhahāpetvā anavasesatova sammasitabbā.

観禅の修習に適した世間名色法の中において、禅修行者は、己自身が容易で、また明確、明晰であると思われる名色の三相を観照を通して、観禅の思惟智を修習しなければならない。

(甲)「禅修行者は、己自身が容易で、また明確、明晰であると思われる名色法の三相の観照を通して、観禅の思惟智を修習しなければならない。」というこの言葉については、(+当該の)禅修行者が、明確、明晰な名色法に関する、観の修習の能力を有していると判断した(+場合の)論師による(+アドバイスである)。

(乙)しかしながら、その後半では、彼は巧妙な技術を応用して、智が不明確、不明晰な名色法についても、観照しなければならない。どの様な遺漏(名色と因果)もない様にする為に。(《大疏鈔》)。

禅修行者は、上に述べた註釈の指示は、五摂受の識別に成功した人について述べているものである事に注意を払わねばならない。

五摂受とは:

 1、色摂受(rūpa pariggaha)。

2、非色摂受(arūpa pariggaha、すなわち、名摂受)。

3、色非色摂受(rūpārūpa pariggaha、すなわち、名色摂受)。

4、縁摂受(paccaya pariggaha、今世の名色の因の識別)。

5、世摂受(addhāna pariggaha、過去と未来の名色の因の識別)。

これらの指示は、禅修行者は、心の赴くままに何か生起する法または容易な法を観照すればよい、概念法と究極法の二者の区別をしなくともよい、と言っているのではない事に注意する事。

それらは、禅林(=修行道場)に来たばかりで、以下の事柄に知見を持たない禅修行者に対して、述べられた事ではない:

1、色から究極法までを知見した事がない。

2、名から究極法までを知見した事がない。

3、名色から究極法までを知見した事がない。

4、今生の名色から究極法までを知見した事がない。

5、過去と未来世の名色の因を知見した事がない。

ある種の人々は、今まさに生起しつつある、また明確な法のみを観照する様にと指導するが、この様であれば、彼らは、ただ(甲)項の註釈と疏鈔の解釈にのみ依拠しており、(乙) 項の疏鈔の解釈を参考にしていない。

《相応部・六処品・不通解經》(Saṁyutta Nikāya、Salāyatana-vagga、Aparijānana Sutta)の疏鈔に基づけば、禅修行者は三遍知でもって、徹底的に一切の色法と名法を識別、観照しなければならないのである(+と言える)。

 (13-2につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版  中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>