<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
8.11.2 もう一つの問題
ここにおいて、以下の様な質問が出るかも知れない:
「もし、これらの受が、近行定において捨離されるならば、なぜに、ここにおいて言及されるのか?」
この様にするのは、それらの理解が簡単に進む様に(+配慮した為である)。
ここにおいて、「無苦無楽」というこれらの語彙で形容された所の、不苦不楽受が、非常に微細であり、非常に知りがたく、識別しがたい(+ことを示したのである。)
牛の放牧者が、暴れ牛に対して、全く近寄りがたく、捉まえる事が出来ない時、彼はすべての牛を一棟の牛小屋に押し込み、その後に、一頭また一頭を外へ出す。そうして彼は言う:
「よし、そいつを私は捉まえたぞ」と。
この様に、暴れ牛もまた捉まえることができる。
同様に、世尊は、五種類の受を、すべて集合させて、それらを理解しやすくしたのである:
というのも、この様に全体的にそれらを顕示したならば、身楽であっても、身苦であっても、または心悦であっても、心憂の法であっても、それらを識別することができるからである:これが不苦不楽受である。
次に、この様に言うのは「不苦不楽心解脱」の縁を顕示する為でもある。
というのも、身苦等々を捨離するのは、それの縁であり、故に以下の様に言う:
「賢友よ、『不苦不楽心解脱の成就』には、四種類の縁がある。ここにおいて、賢友よ、身楽と苦の捨離、及び先の悦と憂の消逝によって、比丘は、無苦無楽の、因捨心を具備した完全なる浄化の正念の第四禅に進入し、安住するのである。」
無苦無楽:
苦が存在しないが故に無苦でる;
楽が存在しないが故に無楽である。
これは、苦と楽の二者に相反する第三番目の受を顕示しており、純粋な無苦無楽の事ではない。
この三番目の「不苦不楽」と呼ばれる受は、また「捨」とも呼ばれる。
その特徴は、喜ばしいか喜ばしくない所の。二者の体験とは相反するもので;
作用は平淡;
現起(現象)は不鮮明な受である。
その近因は、悦(心の楽受)の息滅である事を理解する事。
因捨心を具備した完全なる浄化の正念:
捨を擁して生じる所の正念の清浄。
このジャーナの中の正念は、完全に清浄であり、その清浄は、捨によって生じる。
他の法が原因ではない。
これは、それがなぜ、捨を擁しているが故に生じる正念の清浄というのか、というその理由である。
正念を生じせしめる清浄の捨とは、中捨性捨(tatramajjgattatā)である。
ここにおいて、正念が浄化されるだけでなく、一切の相応する受すべてが浄化される。
尚、この教法は、正念の課題・科目として教えるのである。
捨(中捨性捨)もまた、三種類の比較的低レベルのジャーナの中に存在しているが、しかし、あまり鮮明ではない。
というのも、それは粗くて劣なる禅支によって隠蔽されるが故に。
ちょうど、昼間に、星々は、天空で輝いてはいるものの、しかし、太陽の光によてそれらが見えないのと同じである。
日没の後であれば、星々は見える様になる。
こうしたことから、粗くて劣なる禅支を超越する事を通して、正念は清浄になり、第四禅に到達した時、捨は、単独で突出する事になるのである。
(5-130につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>