Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」6-47(217/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

12.4.32 身正直性(kāyujjukata)

身正直性の特徴は、心所の正直性である;

作用は心所の欺瞞性の突破;

現起(現象)は心所の狡猾、欺瞞でない事;

近因は相応の心所。

12.4.33 心正直性(cittujjukata)

心正直性の特徴は、心の正直性である;

作用は心の欺瞞性の突破;

現起(現象)は心の不狡猾、不欺瞞;

近因は相応の心。

正直性とは、心所と心の正直性を言う。

それらの二者は、心所と心が不正直と湾曲的な虚偽、虚構(=嘘っぽさ)、詐欺と狡猾に向かうのを対治する。

虚偽(māyā)の特徴は、己の過失を隠蔽する事。

虚構(=嘘っぽさ)の特徴は、己自身にない美徳が有るかの様に振る舞う事。

時々、人々の行為は不誠実であったりする。

《清浄道論》では以下の様に言う:

我々は、某比丘が、虚偽、暗示、へつらい、まがりくねった言い方、不思議な表情と手真似で、資具を得る行為をする話を読むことができる。

彼は、実際より以上に善い人間であると仮装して、人々の尊敬を勝ち取っていたのである。

《清浄道論》では又いう:

ここにおいて、ある種の人間は、心に邪悪な願望を抱いて、願望の獲物(+を探し)、尊敬を得る様渇望して、心の中において想う:「この様にすれば、人々は私を尊敬するであろう」

こうして、歩くときの方式を設計し;

横になるときの方式を設計し;

研究した歩き方で歩き、

研究した立ち方で立ち、

研究した座り方で座り、

研究した横の成り方で横になる;

彼の歩き方は、心が非常に安定いている様に見え、

立ち、坐り、横になる時も心が非常に安定している様に見える;

は大衆の前において禅の修行をし・・・。

 

我々は、人から尊敬されたいと思って、実際の自分より更によい人間であると仮装(=己自身の様子を偽る事、以下同様)する時がある。

たとえば、我々が布施をする時、己自身の行動の中に、利己的な動機が存在している時がある。

我々は、よい報いを受けたいと思い、褒め言葉を貰いたいと思い、有名になりたいと思う。

人に聞かせる感動を伴う物語は、利己的な利益のためであったりする。

正直性は、この様な不誠実を突破する。

それは、一つひとつの善心を支援する。

正直性には多くのレベルがある。

正見が上昇する時、正直性もまた同時に向上するし、また、正見は正直性と共に俱生するのである。

四聖諦を正見し、了知する時、正直性もまた同じく、それを了知する。

四聖諦を了知した聖者は、歩くときも正直で、真正で、正確なる道の人である、と言われる。

彼は中道を歩き、両端を避ける;

彼は煩悩を滅尽することに向かう道を進む;

一切の、生起する究極法を了知して、正見を育成する時、たとえ貪と瞋に相応する不善心を了知する所の正見を育成した時、彼は、観智でもってそれらの不善行心を無常・苦・無我として観照することができるが故に、彼は中道を歩んでいるのだと言える。

もし、一直線に中道を歩むならば、我々は日常生活の中において正見を育成することができる、(+たとえば)我々が笑う時も泣くときも、怒っている時も、布施する時も。

もし、一つひとつの行法を無常・苦・無我として観照するならば、我々は真諦を学び取ることができ、一つひとつの究極法はみな、因と縁の和合によって生起したものである事を学び取ることができる。

直前に《清浄道論》における不誠実に関する解釈に言及したが、当該の比丘は、歩くとき、立つとき、坐るとき、横になるとき、心が非常に安定している様に見えると述べた。

ある種の人々は、彼の心が非常に安定していて、それらの行為を実行しているのだと信じるかもしれない。

心が非常に安定して事を成すのは善法であるが、しかし、この話においては、違っている。というのも、彼は己自身より更によい人間であるかの如く、仮装して振る舞っているが故に。

究極法を明記する正念が存在する時、我々はそこに顕現する心は善心であるか、または不善心であるかを知る事ができる。

我々は己自身を理解することができ、それ故に、更に誠実になることができる。

歩くに中道の人は、己自身に誠実であり、煩悩がないなどと仮装する事もない。

煩悩を如実に知見することができる時初めて、煩悩を断じ除く事ができる。心所と心の正直性は、正見を育成する心と随伴して、当該の心がその任務を遂行する事に協力する。

ここにおいて、心軽安を通してのみ、心が軽安と、軽快、柔軟、適業、練達と正直になる事が出来る(+事を表明する)。

そして、名身の軽安を通して、ただ名身が軽安に変化するだけでなく、色身もまた軽安などなどに変化するのある。

これが、なぜ、世尊が、ここで(+は言及しながら)、一切処において、二種類の心所に言及しないのか、という理由でもある。

多くの種類、多くのレベルの智慧がある。

仏法を研究した後、我々は究極名色法及び業報の法則に関して理論的な智慧を持つことができる。

近行定または安止定を基礎にして、更に智慧を育成することができ、究極名色法及びその因を、己自身で自ら体験証悟した事によって智慧を擁する時、それはまた縁起を己自身で自ら体験した事でもある。

究極名色法及びその因は行法である。

禅修行者は、系統的にそれらを無常・苦・無我として観照して、究極法に関する智慧を成熟させなければならない。

それが成熟した時、究極法を自ら体験証悟した智慧、すなわち、聖道智と聖道果は、至上の智慧として、展開することとなる;聖道智は、徐々に一切の煩悩を断じ除く。

諸々の究極法を如実に知見することは、仏教の目標である。

智慧とは、究極的には、何が真実であり、何が真実でないかを了知する事である。

いまだ身見があるならば、我々は諸々の法を如実に知見することはできない。

究極的に、人、動物と家屋は、すべて真実ではない。

それらはただ想像上の対象であり、それらを構成している、単なる名色法または色法に過ぎない。

究極的には、名色法は真実である。それらは、近行定または安止定を基礎とした、透視を通した観智でもって、自性相を己自身自ら証悟(+されなければならない。)

更に高度なレベルの育成、究極法を己自身自ら証得する事に関して、究極法の自性相を了知するだけでは足りない;

自性相は、それらの区別が明確になる(+ための)相である。順序に従って智慧を育成し、有為法の三種類の共相:無常相、苦相、無我相を透視しなければならない。

この種の智慧は、観智と呼ばれるが、それは、人をして、この生において、涅槃を証悟する為の聖道智と聖果智が生起する助縁となるものである。

この種の智慧は、究極法と涅槃の真正なる本質を了知して、煩悩を断じ除く事ができが、しかし、唯一、仏陀だけが、それの指導と育成を行うことができる。

この種の智慧は、自動的に生起することはなく、育成されなければならない。

あなたは、この大切なチャンスを逃してはならない。

修行を通して、究極法の真正なる本質を了知して、涅槃を証悟するべきである。

《法句經》の偈に言う:

不放逸は不死の道であり、放逸は死の道である。

不放逸なる者は不死であり、放逸者はすでに死んでいるのと同じである。

(6-48につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi> 

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>